サッカーを観て学ぶ

2014年11月25日

大久保嘉人の壁を越える方法「得意なものをひとつ伸ばせ」

「スピードだけは負けない」
 
その自信を覆され、試合に出られないことや、チームメイトにサッカーで「負けている」と感じることもあった中学時代。
 
「おれはダメなんじゃないか、伸びないのかもな」
 
そう弱気になる大久保嘉人選手を支えたのは、恩師の言葉でした。
 
大久保選手はどのようにして壁を乗り越え、現在に至ったのでしょうか。今日も自らの壁に挑む全国のサッカー少年へ、大久保嘉人流『壁を乗り越える方法』をお届けします。(取材・文 石井宏美)
 
 
 
<<小さくてもやれる!小6で136cmだった大久保嘉人
 

■親に突き放されたことで、負けず嫌いが養われた

――チームメイトは身体が大きな人が多かったのですか?
 
ぼくは、小学、中学と一番小さくて、選抜に行ってもそれは変わりませんでした。それでもスピードは負けない自信があったのですが、中学になるとそれさえも周りにどんどん抜かれてしまって。その時は、さすがに「もう自分はダメかな」と思いました。小学生のころはすごかったのに中学になると伸び悩む子っているじゃないですか。おれもそうなのかなって。
 
――その状況をどのように打開していったのですか?
 
よく親に怒られていましたね(笑)。小学校卒業と同時に地元を離れ、長崎の国見中学校に入学したので、たまにしか親に会うことができないじゃないですか。休みの日に親が長崎に来れば会えるのですが、ぼくが試合に出ないから来なくなったり、電話をかけても出てくれなかったりして。そういうのが嫌で、本当にがんばろうと思えるようになったんです。そこで親に突き放されたことで、負けず嫌いな面が養われたのかもしれませんね。それからはとにかく練習、練習。朝5時に起きて下宿をそっと抜け出し、ごみ箱から缶を出して、それを等間隔に並べて。ドリブルの練習に明け暮れました。中学に入学したころに『小嶺アカデミー』という選抜チームができて、そこに選ばれたのですが、小嶺(忠敏・現長崎総合科学大学および同附属高校サッカー部総監督)先生はよく「自分の得意なものをひとつつくって、それを伸ばせ」とおっしゃっていた。その言葉を聞いて、自分の武器はドリブルだと再確認しましたし、それを伸ばす努力をしようと思いました。その小嶺先生の言葉は大きなポイントになりました。
 
――試合に出られるようになったのは?
 
中学2年です。そこで自信がつき、点を取れるようにもなりました。ただ、まだまだ“普通”だった。というのも、九州選抜に選ばれているチームメイトには、まだまだ追いつけていないと感じていましたから。自分の中ではっきりと“負けているな”という感覚もあったので。ただ、切磋琢磨できる存在がいたからこそ、高校になって大きく飛躍することができたのだと思います。
 
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