インタビュー
2017年9月 7日
「どう思う?」の問いかけがカギ! Jクラブの監督であり5児の父である安永総太郎の子育て論
現役時代は横浜F・マリノスや清水エスパルスで活躍した安永聡太郎さん。リーガ・エスパニョーラ二部、ラシン・デ・フェロールでのプレー経験を持ち、日本サッカー協会の公認指導者ライセンスS級コーチを取得する際の海外研修でもラージョ・バジェカーノやビジャレアル、バレンシアなどで学び、スペインサッカーへの理解が深い方です。
選手引退後はリーガ・エスパニョーラの解説者を務め、その鋭く的確な視点と分かりやすいコメントで高い人気を誇っています。そんなリーガ通の安永監督は2016年よりJ3のSC相模原の監督を務めています。トップチームの監督は初の経験ですが、スペインサッカーへの造詣が深く、理論的な指導を信念に掲げながら日々奮闘しています。
そんな安永監督は、プライベートでは5児の父親でもあります。息子さんもサッカーをしている中、どういった子育てをしているのでしょうか? また、ご自身の幼少時代についても伺いました。(取材・文:竹中玲央奈、写真:新井賢一)
■子育てのスタンスは“放任”
山口県宇部市で生まれ育った安永監督がサッカーを始めたのは小学校3年生のときですが、「練習がきつすぎてすぐに辞めてしまった」のだそうです。それでも4年生のときもう一度クラブに入りなおして再スタートを切ると、今度はキャプテンに任命され、そのまま中心選手へと歩んでいったと少年時を振り返ります。
その中で両親の接し方はどうだったかと問うと……
「放任でした。当時は周囲にサッカーを知っている、やっていたという親が少なく、うちの両親もそうだったので、何も言われたことはなかったです。関わり方といって思い出すのは、4年生か5年生の時に、父が8ミリフィルムのビデオカメラを買って試合を撮りに来てくれた事。家に帰ってからその映像を見たのですが、親父が三脚などを使わずカメラを手で持って撮影しているので、映像がブレブレで気持ち悪くなってしまった……、というような思い出があります(笑)」
「そういった送迎やプレーの記録などの協力は、山口県にいる間はずっとしてくれていました。サッカーに対しては、本当に何も言われたことがなく、高校卒業後にプロを選ぶときですら特に言われたことはありません。唯一、高校進学で迷っていた時に最終的な決断を下してくれたのは親父でしたけど、それ以外は一切口を出されなかったですね」
(7月某日、練習で選手たちに指示を出す安永監督)
その、唯一父親が進言をしてくれた高校進学についてですが、地域で名の知れた選手だった安永少年の元へは色々な高校から話が来ていたそうです。その中でも熱心に彼を誘っていたのが長崎の名門である国見高校でした。
「小学生の時点で国見高校からのオファーをいただいていましたが、当時は中学進学時に親元を離れるという概念や事例があまりなかったこともあって、高校からいきますとは伝えていたんです。国見高校への進学を考えてはいましたが、一方で当時僕らの世代の山口県は結構強かったので、選抜で集まるメンバーと『山口の選手で集まって山口県を高校サッカーで優勝させようぜ』という話も話していたんです。そういうこともあって最初はその2つで迷っていたんですけど、その中で静岡県の清水商業高校(以下「清商」サッカーの強豪校で著名な卒業生に風間八宏、川口能活、小野伸二らがいる)からも入学の話しが舞い込みました。当時のサッカー少年たちにとって静岡は強いチームがひしめく憧れの場所だったので、その話を聞き心が揺れ動きました」
「結局、僕が『この高校に行きたい』と思っていた高校へ、選抜で夢を語り合っていたメンバーが全員が進学できる状況でもなかったので、山口県の高校へ進学する選択肢を外しました。国見高校か清水商業高校かで迷っていたのですけれど、清商の監督である大滝先生がわざわざうちまで足を運んでくれて、両親と話している中で親父が入学を決めてくれたという訳です。ある日友達と遊んで帰ってきたら『お願いしますって電話しといたよ』と。自分のいない所で決まった話でしたが憧れの地でサッカーができるというワクワク感もあり『OK、わかった』と言って清商行きを決めました」
そして、静岡での高校生活を経てプロ入りが決まるわけですが、大学へ進学せずに横浜マリノス(現横浜F・マリノス)への入団という決断をする際も、特にご両親から何かを言われることはなかったと振り返ります。ご両親の方針で、幼少期から自身の決断に責任を持ち、主体的に考える環境があったことが、安永監督の人生の中でも大きな経験になったのです。
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