インタビュー
2018年2月 7日
元鹿島の岩政大樹が、考えて動く力を身につけるベースとなった少年時代の習慣と「母の助言」
■サッカーは勉強をした上でのプラスアルファ
地元の中学でもサッカーを続けた岩政さんでしたが、その中学も全校生徒が30人で、サッカー部はなし。部活動の選択肢はなく、男子は全員が陸上部に入部という状況でした。その中で岩政さんは地元に新しく出来たクラブチームに入り、サッカーを続けることになります。
しかし、そのクラブチームは毎日練習できる環境になく、中学卒業時にはサッカーを辞めようと考えていたそうです。
「中学時代は平日は陸上部で、サッカーをするのは週末だけ。なので、中体連のチームの子たちとはだいぶ差がついているんですよ。小学校でチームメイトだった子たちとたまに練習試合をしても、全然レベルが違う。チーム自体も僕自身も歯が立たなくて、それはもうしょうがないというか。だから、僕もサッカーを続けるつもりはありませんでした」
また、大島とその周りにはサッカー部がある高校が1つもなかったそうで、「続けようも無かった」という環境的要因もありました。しかし、そんな中で転機が訪れます。
「当時、山口県にはクラブチームが10チームしかなかったこともあり、3年生のときにたまたま優勝したのですが、優勝チームは最後に中体連の優勝チームと戦えるんです。 その試合でたまたま僕がすごく調子が良かった。2-4で負けたんですけど、攻守においてすごく目立ったんですよね。その試合には県内の名門校である多々良学園(現・高川学園)のスカウトが来ていました。スカウトの方は相手チームを見に来たのに、僕のほうが目立ったので、突然特待生のオファーが来ました。そのときに、『小学時代の同級生にも敵わないと思っていた自分に県のトップの高校からオファーが来たのなら、サッカーを続けてもいいんじゃないか』と思ったんです」
偶然訪れたサッカーの名門校への進学のチャンスに岩政さんは飛び乗ることも頭をよぎりました。しかし、そこに両親が待ったをかけます。
「サッカー選手になるつもりもないのによく考えなさい、と。『サッカーを3年間やって、その後どうするの?』と言われました。両親が2人とも教師だったこともあったかもしれませんが、自分の将来をよく考えた上で判断させようとしてくれましたね。元々、サッカーで生きていける自信はありませんでしたから、学生の本分である学業と大好きなサッカーを両立する道を探ることが一番だと自然に至りましたね。」
両親との家族会議の末に名門校への進学を断念した岩政さんですが、親元を離れるつもりもない中で、前述の通り周囲にはサッカー部がある高校がありませんでした。そのような状況で、サッカーを続けるために非常に悩みましたが、ある1つの選択肢が浮かんできます。
「島から少し離れた岩国高校まで足を伸ばせば、片道1時間半くらいかかるけど、サッカー部があったんです。加えて進学校だった。突然、選択肢が現れたわけです」
そこから片道1時間半かかる岩国高校へ進学することになった岩政さんですが、この環境下で、更に自走力を身につけることになります。
<後編へ続く>