こころ
2014年10月 7日
大人になりきれない日本のサッカー選手と、大人のプレーができる錦織圭の違いとは?
■錦織圭は日本の社会教育では育たない
話を「なぜ錦織はアメリカで大成したのか?」に戻しましょう。指導法が同じでも錦織が育たないのは、『教育』の問題です。それも学校教育という狭い意味ではなく、社会によって学ぶこと全般を指します。たとえば、近所同士で尊重し合うコミュニティーがなければ、子供はどこで尊重を学ぶのでしょうか? 自分が悩む前に答えを教えられたら、答えを求めて悩むことをどこで学ぶのでしょうか? 欲しいものをつねに与えられたら、求めるために我慢したり努力したりすることをどこで学ぶのでしょうか?
整理すると、
1)スポーツは運動能力だけでなく、人格的な能力を求められる
2)人格的な能力を学ぶ機会が、日本には稀少
3)したがって日本のスポーツ(特にチーム・スポーツ)は強くなりにくい
事態は絶望的に見えますが、こう考えてはいかがでしょう。
4)スポーツで人格的な教育をする
5)スポーツマンが増えれば、日本の社会が健全になる
6)健全な社会では「強いスポーツマン」が育つ
なんだか循環してますね。「卵が先か、ニワトリが先か?」議論に似ています。ですが、議論している間があれば、現実的なところから行動をするべきではないでしょうか?(それこそが、スポーツマンらしい態度です。スポーツは"思考"と"行動"を一致させないと勝てません)
わたしが『スポーツマンシップ指導者育成会』というNPOを創立したのは、スポーツマンシップの理解を指導に取り入れる事が『競技力の向上』には不可欠であり、ひいては社会の健全化、安全に結びつくと考えているからです。社会が不安定化するリスクを減らすためには、社会を構成するメンバーを強くする以外に方法はなく、現時点でスポーツ以上に有効な方法はないと考えています。
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