考える力

2014年9月 8日

ぜったい子どもに伝えたくなる! スポーツマンシップの歴史

■スポーツは社会的な能力を身につける教育ソフト

電話もない当時、遠隔の地において派遣された管理官が賄賂や汚職に手を染めていないかどうか、はチェックしようがありません。そこで、少年期の教育によって、自己の内面に倫理観を育成しておくことが重要になったのです。ジェントルマンとは、「身体健吾」で、「判断力」に優れ、「行動する勇気」を備えており、国を愛し、ルールを尊び、暴力に訴えずに理性的に行動する男のことを指し、すべての男子が目指す理想像とされたのです。(パブリック・スクールは男子が通う全寮制の私学でした。)
 
これらの能力は、学問を学ぶだけでは身に付きません。やはり対人関係の中で実践を通じて身につけるベき「社会的な能力」です。そして、パブリック・スクールでは、従来の「気晴らし、としてのスポーツ」をこれらの社会的な能力を身につける教育ソフトとして、洗練していったのです。
 
これらの役割が文章として公になったきっかけが、「ウィカミスト論争」というものでした。「イートン」「ハロー」「ウィンチェスター」という3つのパブリック・スクールが、クリケットの対抗戦を年中行事として行なっていたのですが、1851年にウィンチェスター校のモバリー校長が「定期戦が近づくと、生徒が興奮して学業の妨げになる」と定期戦から脱退することを決めたのです。これに対してOB達が「復帰」を嘆願し、署名運動とともに新聞に意見広告を載せました。それをきっかけに「スポーツは教育に良いのか?」という大論争が起きます。これが「ウィカミスト(ウィンチェスター校のOBのこと)論争」です。OB達が新聞に載せた意見は、「男らしさ」「紳士的振る舞い」「他者に対する尊重」「忍耐」「勇気」「独立心」「自制心」「決断」などの「社会的の能力」を我々はスポーツを通じて学んだ」というものでした。
 

■スポーツマンの定義は「良い友達」

この論争は、「スポーツマン」とはこれらの能力を備えた男のこと、という認識が確立する契機になりました。その下敷きとなったのは前述した「ジェントルマン」でした。そして、これらの能力を備えた者は、立派な植民地の管理官となるのです。因にオックスフォード辞典のポケット版でスポーツマンを引くと、「Good Fellow」(=良い友達)と定義されています。確かにこういった能力の人がいたら是非、お友達にしたいですね。
 
中でも「勇気」はスポーツマンにとってもっとも重要な要素でした。勇気とは、「思ったことを行動に移すこと」を指します。日本でも、古来「義を見てせざるは、勇無きなり」と言われてきました。勇気とは「行動」のことです。スポーツが上達するために重要なことは、「心技体」と言われるように、脳で思うことが体の筋肉に伝わり、実践される事、即ち「頭脳と身体の統合」が要求されます。口先だけで実践が伴わない人は、英米において軽蔑の対象になります。判断に基づいた行動ができないと、スポーツのゲームでは敗者となります。スポーツを通じて、判断力とその実践という回路を自己の内部に構築するトレーニングが成されるのです。従って、社会におけるリーダーはスポーツを通して養成される、というのが欧米の常識です。
 
残念ながら、我が国では事情が異なっています。俗に「体育会系」と呼ばれる傾向は、「自ら判断する」のではなく、組織の中で上からの命令に従順である、という意味合いが強いのです。ここには長い歴史があります。(ちなみに筆者はこれまで数千人に講義や講演をして来ましたが、スポーツマンに必要な能力として「勇気」をあげた人に出会ったことがありません(東京電力の社内に「勇気」のある人がいれば、東北大震災の災害はあれほど大きなものにはなっていなかったでしょう。これが「人災」の具体的な中身なのです)。
 
 次回は、「なぜ、日本はスポーツを体育と混同したのか?」についてお話します。
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