考える力
2019年6月10日
浦和レッズ史上初のユース出身プロだったのに1年で戦力外! Jリーグ以下から這い上がり天皇杯で優勝した元Jリーガーが語る「プロになるために必要な事」
浦和レッズのユース出身プロ第一号だったのに、たった1年で戦力外。Jリーグ以下から再スタートをと思ったら、入社した会社からリストラされ20歳で無職に。Jリーグの舞台に戻れる確証もない練習参加の日々。
なぜ彼は上手くいかなかったのか。
それでもサッカーへの想いから奮起しJ1の舞台に戻ると天皇杯優勝も経験。選手としてはアルビレックス新潟や京都サンガF.C.、大分トリニータなど18年のプロ生活を過ごし、現役引退後は京都サンガF.C.でスカウトやアカデミーコーチを歴任、現在は浦和レッズハートフルクラブのコーチとして活動している鈴木慎吾さんに「あの時なぜうまくいかなかったのか」「プロとしてやっていくのに必要なスキル」を伺いました。
逆境から這い上がるチカラをご覧ください
(取材・文・写真 森田将義)
後編:実力が劣っていても仲間との協力で「相手の逆」をつけば勝てる! 現代の子どもたちに必要な「上手くなる楽しさ」の与え方>>
■プロ向きの性格でなかった自分が変われたワケ
アルビレックス新潟での活躍を機に京都サンガF.C.に移籍すると、2002年には天皇杯優勝を経験。左足から繰り出す正確なクロスで、多くのサポーターを虜にしたのが鈴木慎吾さんです。鈴木さんはJリーグ、Jリーグカップで441試合に出場、78得点を挙げ、18年間もの間、一線で活躍しましたが、プロ生活は順風満帆とは言えないスタートでした。
――まずはプロ一年目について振り返ってください
浦和レッズユースからトップチームに昇格した時はFWだったのですが、当時の浦和には福田正博さんや岡野雅行さんなど錚々たる選手がいました。ユースからの昇格第1号として頑張っているつもりでしたが、トップチームの試合には出られませんでした。1年目から日本代表経験がある福田さんや岡野さんに勝つのは難しくて。
まずはプロの世界を感じて、2年目から活躍しようと考えていたのですが、今になって思えば実力の世界なのに、そうした考えを持った時点で負けなんです。
当時の僕は周りから、「優しいからプロ向きの性格じゃない」と言われていました。ですが、敵わなくてもチャレンジしていく気持ちがあれば、もっと自分の色を出せて違った結果になったのではないでしょうか。常に勝負できない人間はプロではありません。待っていてもチャンスは来ないので、自分から掴みに行かないとダメなんです。当時の自分はサッカーに対するこころの姿勢がアマチュアで、戦力外になっても仕方なかったと思います。
――プロ向きの性格ではなかった鈴木さんの転機はいつ頃だったのでしょうか?
グラウンドの中では先輩後輩関係なく、チームの勝利のために周囲に要求しなければいけません。でも、僕は人と喋るのが苦手な上、先輩に対してピッチで意見が言えず、「ボールを寄越せ」などの自己主張ができなかったんです。ゴール前でチャンスが来ても、「先輩、シュートをどうぞ」と言ってしまうタイプの人間でした。
だから、浦和レッズの次に所属した横河電機サッカー部(現・東京武蔵野シティFC /JFL所属)に入ってからは自分の性格を変えたいと思ったんです。ある時、練習中に勇気を振り絞って、先輩に言われたことに対して、「うるせーんだよ!」と言い返したんです。練習後に「なんだ、その態度は!」とやり返されたのですが、強く言い返したのを機に周りの態度が変わって、少しずつボールが集まるようになりました。
「慎吾、今のプレーはどうしたかったの?」と聞いてきてくれたり、「人を変えたかったら、まずは自分を変えろ」とよく言いますが、まさにその通りだなと思いました。ピッチの上で自分をドンドン出せるようになってからは、プレーしやすくなりました。
――横河電機では働きながらのプレー。大変ではなかったですか?
周りの先輩のおかげでプロ向きの性格に近づき、またプロでチャレンジしたい気持ちが芽生えました。1年目が終わったタイミングで、アルビレックス新潟のテストを受けたのですが、不合格になり、横河電機での2年目に突入しました。
契約更新の際には、サッカーと働きぶりを評価して頂き、正社員の誘いを貰いました。給料が良くなるのは魅力でしたが、サッカー選手としてステップアップするためのチャレンジがしやすい契約社員の立場を選びました。
でも、それから半年経ったタイミングで会社の業績が悪くなり、部長に「明日から会社に来なくて良い。サッカーはうちでやっても良いから働く場所は自分で見つけなさい」と言われたんです。20歳にして職を失う予想はしていなかったので愕然としました。
クビなってからはプロを目指して湘南ベルマーレの練習に参加し、夜は横河電機の練習。深夜はハウスクリーニングのアルバイトをする生活を半年ほど続けました。当時、湘南ベルマーレの監督だった植木繁晴さんに「来年獲るから、このまま横河電機で頑張れ」と言って貰ったのが励みだったのですが、成績不振で植木さんが解任になり、その話は無くなってしまいました。
――落ち込んでもおかしくない状況ですね......
路頭に迷っていた時に、アルビレックス新潟から「またテスト受けてないか?」と声がかかり、今度は合格しました。
年俸は決して高くなかったのですが、サッカーでお金を稼げるのは本当に嬉しかったです。新潟に加入した1年目は夏まで途中出場ばかりだったのですが、常に「このチャンスを掴まないとダメだ」と思っていました。
待望のJリーグ初出場は自分の誕生日で、Ⅴゴールを奪えました。そして「自分に運が向いているから、腐らず頑張り続けよう」と思って努力し続けていたら、夏にまたチャンスを貰えて、2点目をマーク。そこから5試合連続でゴールを奪い、レギュラーに定着しました。
■サッカー選手として浮上できた理由
――そこから選手としての飛躍が始まりました。
2年目は開幕からずっと試合に出て、チームで一番点を獲りました。他チームからもオファーが来るようになったのですが、チームへの恩義を感じていたので残留を決めたら、3年目には反町康治さんがアルビレックス新潟の監督に就任しました。
就任と同時に自分はFWから左サイドハーフにコンバートされたのですが、不慣れなポジションに戸惑い、最初はプレーの精彩を欠きましたね。スタメン落ちも経験しましたが、反町さんにMFとしての動きを教えてもらい、練習試合で結果を残すと再びスタメン出場のチャンスを貰えました。その試合でゴールを決めると、そこからまたスタメンに定着し、シーズン最多得点を記録しました。
ずっとFWのままだったら、プロで生きて行けなかったと思うので、反町さんには感謝しています。反町さんは僕が生きる道はMFだと分かっていたんでしょうね。
――翌年は京都サンガF.C.に移籍し、初のJ1に挑みました。
J2での活躍を見て、ゲルト・エンゲルス監督が僕を欲しいと言ってくれたそうです。京都では初めて左ウイングバックでプレーしたのですが、開幕戦で奪ったゴールを皮切りに7点をマーク。天皇杯でも優勝できました。4年前にハローワークに通っていたとは思えない人生ですね。
――サッカー選手として浮上できた理由は何だったのでしょうか?
「チャンスは一度きりしかない」と思えたのが、大きかったのではないでしょうか。アルビレックス新潟で活躍できなければ引退するつもりでいたので、いつも「目の前のチャンスを逃したら、次の試合に出られない」と考えていました。結果を出すためには練習しなければいけない。どんな練習をすれば上手くなれるか考えて練習したのが、良かったと思います。
また、自分が活躍するためには上手く味方と協力し合わなければいけません。そのためには味方の特徴を知る必要があり、普段からコミュニケーションをとらなければダメなんです。
結果を残したいからと言って、独りよがりなプレーをしていては、点は獲れないので、周りのために誰よりも走ろうとも意識していました。
――悔しい想いから気づきを得たから、プロで活躍できたのかもしれません。
J1で活躍し始めてからも、常に自分自身に「調子に乗っているんじゃないか」、「現状に満足してしまっているんじゃないか」と問いかけていました。
20歳で無職を経験したのが良かったんでしょうね。同じ想いはしたくないという気持ちが原動力になっていました。
失敗から学べることがたくさんあったので、今の子どもたちにも失敗しても良いから色んな経験をして欲しいと思っています。ただ、失敗を取り戻すだけなら、ゼロにしかなりません。上に行こうとする時はライバルたちが諦めるくらい引き離せるかどうかが大事です。レギュラーを獲ったら、敵だけでなく、味方にも「コイツには敵わない」と思わせようと頑張っていました。
プロになりたての頃は「先輩、シュートをどうぞ」というタイプだったのに、チームの勝利のために勇気を振り絞って先輩に反発したことで、ピッチでも自分が出せるようになった鈴木さん。「チャンスは一度きりしかない」と腹をくくってサッカーに打ち込み、結果を出すために必要なことは何か考えながらトレーニングに励んだ姿勢があったからこそ、18年もの間Jリーグの舞台で活躍できたのでしょう。
全てはサッカーが好きだったから。逆境から這い上がるチカラは、社会生活でも必要とされるものです。人生においては頭で理解するだけでなく、失敗しないと腹に落ちない、本当の意味で学べないことがたくさんあるのです。
後編では、引退後のキャリアで携わった選手スカウトやスクールコーチの視点から、伸びる選手の特徴などを伺いましたのでお楽しみに。
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鈴木慎吾さんもコーチングスタッフとして携わる
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