楽しまなければ勝てない~世界と闘う“こころ”のつくりかた

2018年11月14日

ネットの声が後押し!? 子どもの気持ちを人質に自分の欲を満たす体罰指導者が減らない理由

■子どもの純粋な気持ちを人質に、大人の欲望の道具にしている

スポーツは楽しむもの。全力で楽しんでいたらいつの間にか人間的にも成長していた、そのぐらいのスタンスで。(C)三浦卓

明治維新に欧米から日本へ入ってきたスポーツにはゲームとしての勝敗というものがあったため、それが武士道精神の「負けることを恥」と感じてしまう精神性にひっかかってしまい、エンジョイ=楽しむことを中核に持つゲームであるスポーツで負けることに対しても過敏になってしまったと考えられます。

これはルース・ベネディクトが書いた「菊と刀」という日本人論をまとめた本の中にも書かれていますが、日本人は他者に対する「敗北による恥」に過敏で、敗北した場合の落胆が欧米に比べ非常に大きいということなのです。

そして、その他者に対する「負けることを恥」と感じる感性が強すぎた結果、スポーツをエンジョイする、楽しむという部分が、なかなかスポーツの考え方の前面には出てこなかったのです。

私のゼミには、高校時代に何十発も血だらけになりながら殴られてきたという学生が何人かいたことがあります。

「君、そこまでやられたのに、なんでそのスポーツを続けてきたの?」と聞くと、「やっぱり、そのスポーツが好きで楽しかったからです」と答えました。非常に厳しい言い方になりますし、無自覚である可能性も大きいのですが、そこには、子どもたちの楽しさを人質にして、大人たちの勝ちたいという欲望を満たしたと言われても仕方ない側面が多分にあると思います。

暴力も暴言も、指導者として悪気を全く感じずに行っている事例が見られます。そういう人たちにとってみれば、今の社会の情勢、SNSとか、いろいろな情報が流通してしまう状況を「やりにくくなった」「これでは強くできない(=勝たせられない)」と感じているのだと思います。悪気があって人を殴っていたら、それは本当の悪党ですから、恐らく彼らに悪気はないのです。

そして、悪気がないからこそ、矯正することが非常に難しい。この問題の根は非常に深いということを、私たちは理解する必要があるのです。

スポーツの持つ教育的な力は、ゲームを楽しむために、自分を磨くこと、ライバルを含んだ仲間と切磋琢磨し高め合うこと、ルールを順守してフェアに闘うこと、真剣にベストを尽くすことなどに"自己決定"の下で取り組んだ時に最も大きくなるのです。

そこに指導者の暴力や暴言での強制の入る余地は全くないのだということが理解されなけらばならないでしょう。

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高橋正紀(たかはし・まさのり)

1963年、神奈川県出身。筑波大学体育専門学群ではサッカー部。同大学大学院でスポーツ哲学を専攻。ドイツ国立ケルンスポーツ大学大学院留学中に考察を開始した「スポーツマンのこころ」の有効性をスポーツ精神医学領域の研究で実証し、医学博士号を取得。岐阜経済大学経営学部教授及び副学長を務めながら、講演等を継続。聴講者はのべ5万人に及ぶ。同大サッカー部総監督でもあり、Jリーガーを輩出している。
Jリーグマッチコミッショナー、岐阜県サッカー協会インストラクター、NPO法人バルシューレジャパン理事等を務める。主な資格は、日本サッカー協会公認A級コーチ、レクリエーションインストラクター、障害者スポーツ指導員中級など。

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