弱小チームのチカラを引き出す! 暁星高校林義規監督の教え
2014年12月23日
コンクリートのグラウンドから全国高校サッカー選手権大会出場
■林義規の少年時代
時代は1960年代、世の中はまさにプロ野球全盛である。そんな中、林少年は小さなボールをボロボロにしながら、夢中でコンクリートのグラウンドを駆け回っていた。
その頃、小学5年時に1964年(昭和39年)の東京五輪(ベスト8)、中学3年時には1968年(昭和43年)のメキシコ五輪(銅メダル)が開催され、川淵三郎、釜本邦茂、杉山隆一ら全日本チームの活躍に魅了されたという。マイナースポーツだった日本サッカーが、まだ影も形も見えないプロスポーツ化へ胎動をはじめた時代だった。
しかし、そんなサッカー学校にあっても、サッカーの指導環境が充実していたわけではなかった。専門に教えられる指導者はおらず、OBや修道院の神父が時おり指導に当たっていた程度だった。決まった指導者がいないことで練習試合を組むことができず、頼まれ顧問は形だけ存在していただけだったそうだ。それでも中学時代の暁星は無類の強さを誇っていた。
「中3のときは俺がキャプテンで、東京都で70連勝くらいしたんだよ。新人大会からなにから全部勝った。それは今でも誇りだね。ただ残念だったのが、その時代はまだ全国大会がなかったんだな。東京都の中だけで完結しちゃっててさ。やってねえからわからねえけど、全国大会があったらなぁ」
勝つこと、楽しむことを純粋に追いかけていたあの時代を憶い、しみじみ語る林監督の頬は自然と緩んだ。指導者がいなくともただひたすらサッカーに明け暮れた小・中学時代だったが、高校にあがると状況は一変してしまう。
「やっぱり高校になるとみんな不安になるじゃん。監督がいねぇんだもん。進学校だしさ。でも高1の頃はまだ人数が多くて、都大会でもベスト8にはなったんだよ。最後は帝京にコテンパンに負けてさ。それで高2になったらもう受験でしょう。ほかの連中は辞めて俺ひとりしかいなくなったんだよ。あとはもう後輩だけだった」
高校2年生になるとチームのレベルの低下以前に、試合ができる人数を確保することすらままならなくなっていた。地区大会で暁星中の3年生をメンバーに入れて没収試合にされたこともあった。高3時はついに人数不足から公式戦に出られる状態ではなくなってしまったという。
「そんな劣悪な状況でさ……。部員がいなくて、辞めていこうとする人に『辞めるなよ』とか、なんで俺がごますらなくちゃいけないんだって……。そんなの嫌じゃん」
一緒にやってきた仲間とただ好きなサッカーがやりたかった。そんな思いも空しく、自分ひとりだけが取り残されていった。それでも林監督がサッカーを辞めることはなかった。そのサッカーへの情熱が絶えなかったことには理由があったという。
「なぜだか高1のときに国体の東京選抜の選手に選ばれたんだよ。当時は帝京と中央大附属が強くて、猛者に混じってサッカーしたんだよね。その中でやれたのは大きなきっかけだった」
高いレベルを、違う世界を知って、そこに自分が選ばれたことでサッカーへの熱は沸騰していた。
「だから俺は強いところに行きたいと思ったんだ。部員確保とか、そんな余計な心配しなくていいところで思いっきりサッカーをやりてぇなって。それと、俺はもともと教員志望だったんだよ。だから大学を出て、俺みたいな思いをする後輩がいたら可哀想だから、暁星に赴任してちゃんとしてやろうと。そういうモチベーションがあったね」
■恩師との出会い
そして、選んだ進学先は大学サッカーの名門中の名門、早稲田大学だった。
同大学は八重樫茂生、川淵、鬼武健二、松本育夫、釜本ら日本サッカーの歴史を築き上げてきた人物を輩出し、同年代には吉田篤良、西野朗、加藤久ら学生時から日の丸を背負う選手たちが在籍していた。
「強いところって早稲田を選んだはいいけど、これじゃあとてもじゃないけど試合に出らんねえよってね」
林監督の派手な笑い声が教員室に響く。それだけ、早稲田大サッカー部の選手たちの力は圧倒的だった。しかしそこで、林監督は人生の師と呼べる人物と出会うのだ。
「もうすべてと言っていい。目標としている先生方は諸々いるけれど、俺のベースとなっているものすべて、堀江先生から学んだよ。とにかく凄まじい監督だった」