汗の分だけ、成長できる

2015年6月30日

「反り返るほどの壁を乗り越えて今がある」中村憲剛

インタビュー前編では、小学6年生のころに味わった大いなる挫折、その失意のうちに過ごす中学時代のエピソードを語ってくれた中村憲剛選手。今回は、もう一度真剣にサッカーを打ち込みたいと入学した東久留米高校サッカー部や、各高校のエース級が集う中央大学サッカー部でのエピソードを話の軸に、挫折の乗り越えるために必要なことを聞いてきました。サッカー少年を子に持つお父さんお母さんは、ぜひご一読ください。(取材・構成/竹中玲央奈 写真/武山智史)
 
 
 
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■雨の日にやったグラウンドの水抜き

――高校選びのことをお聞きしたいのですが、全国に憧れていたのであれば、他県の高校という選択肢もあったのでは?
 
越境して強豪校に行くような大層な選手じゃなかったので(笑)だから、行けるところに行こうと思っていました。久留米もぎりぎりでしたけどね。
 
中学3年の半年くらいはサッカーをやっていないんですよ。だから高校に入ったときはものすごく大変でした。遊びでは蹴っていたけど、部活は違う。しかも高校って入部直後はすごく走るんですよね。
 
――今は人工芝のグラウンドですが、当時は土でしたよね。他にも苦労はあったのでは?
 
「いまの子はいいな」と思います。グラウンド整備とか知らないのかもね(笑) 雨が降ったら昼休みに1年生がスポンジで水抜きをやるんですよ。しかもスポンジもボロくなったら買い替えればいいのに、ボロボロで水を吸収しにくいやつばっかりで、嫌がらせなのかと思うくらいでした(笑)
 
ボール磨きもやりましたよ。先輩に「綺麗になるまでやれ」と言われて。1年生は昼休みにグラウンド整備や水抜きがあるから3時間目と4時間目の間にご飯を食べていました。いい経験でした。
 
――人数も多いのでしょうか。
 
ぼくが久留米のサッカー部に入部したときは、1年生が80人くらいいました。そんなに大きな高校ではないけど、男子はサッカーをしたい学生が集まってくる。だけど、結局3年まで残ったのは20人くらい。練習試合のユニフォームを作ったときは60,70番台まであった。ABC……5チームくらいはありましたから。
 
――その中で中村選手はどこからスタートしたのですか?
 
一番下です。1年生でも、入学する前にすでに参加している人とかいるじゃないですか。そういう人はBチームとか、Aチームで試合に出ている同級生もいて。それを見てすごいなと思っていました。
 
――そこから、1年生の夏あたりにトップチームに上がれたんですよね?
 
そう、今で言う育成枠(笑)
 
伸びるかもしれない、とりあえず面白そうだから入れておくか、みたいな。いきなり7人くらいポンと上げられて。そのうちの1人でした。「なんで、おれ?」と思ったのを覚えています。
 
――1年の夏に上のチームに上がってからはまたそのまま上のチームへ?
 
でも、1年生のときは結局、公式戦には出られなかった。そこから卒業するまでAにはいたけど、試合に出たのは2年生になってからです。
 
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