汗の分だけ、成長できる
2015年9月30日
一流Jリーガーが語る!努力して汗をかくことの大切さ
サッカー界の第一線で活躍する選手や指導者に、ご自身の少年時代に汗をかいて努力した思い出やその経験を通して得たものについて語ってもらう連載企画『汗の分だけ、成長できる』。山口素弘、高原直泰、川口能活、中村憲剛、川島永嗣、播戸竜二。だれもが知っている一流プレーヤーの言葉を借りて、汗をかくことの大切さをわが子に伝えましょう。(文 サカイク編集部)
■自分たちで考えながら練習していた少年時代 元日本代表MF 山口素弘さんの場合
――サッカー少年だった当時、これは努力したということは?
「小学生のときに一度、試合中に蹴られてふくらはぎの裏の骨にひびが入ったことがあるんです。二カ月くらいギプスをしていたので、外したら脚がすごく細くなっていた。それが嫌で、自宅の近くの山道をひたすら登ったり降りたりしながら毎日走っていました。走ったり、筋力トレーニングをしたりするのは嫌いではなかったですね」
――その後中学へ進学し、高校は全国屈指の強豪の前橋育英高校に進むわけですね。
「中学3年生のときに群馬県大会で優勝しているんです。ただ、中学校の部活動は1年生の頃は球拾いばかりで全然おもしろくなかった。だから18時くらいまで部活動で球拾いをやって、そのあとに1年生だけで公園に集まってミニゲームをやっていました」
――1年生だけで!?すごい行動力ですね。
「どうすれば楽しくサッカーをして毎日を過ごせるか、そのことばかり考えていました。というのも僕らの部活動には指導をしてくれる先生がいなかったから、すべて自分たちでメニューを考えなければいけなかったんです。2年生の秋に新チームになって自分たちが一番上の学年になったときは、自分たちで練習メニューを考えて、自分たちで試合のメンバーを決めて戦っていました」
――自分たちで自分たちのことを律して活動するのはすごく難しいと思うのですが。
「単純にサッカーがうまくなりたいという気持ちが強かったこと、それがベースにあったと思います。とにかく試合に負けたくなかった。自分たちを律するというよりも、単純にサッカーに向き合う時間が本当に楽しかったんです。そして試合に勝たないと楽しくないからがんばれるわけです」
――当時から“負けず嫌い”だったと自負しますか?
「唯一、自分を表現できるのがサッカーだったから、サッカーで負けるわけにはいかないという思いはありました。野球の場合、自分が待っている絶好球をサインの関係で見逃さないといけないときもあって、野球自体はおもしろおもしろかったのですが、ちょっと自分には消化不良なところもありました。ところがサッカーには思う存分自分で判断して、のびのびプレーできる環境があったんです。入団した当時のきっかけを思い起こせば、兄のサッカーについていってグラウンドでボールを蹴っていたとき、少しだけコーチの人に教えてもらって、それを自宅に宿題として持ち帰ったんです。そして週末に自分なりにアレンジして練習を繰り返して、次の週に同じコーチの人に練習の成果を見てもらったらすごく褒められたんです。それがすごくうれしくて、自然とサッカーにはまっていきましたね」
――いまは指導者の立場になりましたが、子どもが成長するには自分自身で判断したりアイデアを出したり、という作業はやはり大事だと感じますか?
「そうですね。その判断の結果がうまくいくかどうかは別として、自分で判断したうえで失敗や成功を経験することがとても重要だと思います。人に強制されて実行に移したことは、いざ失敗したときにその人のせいにできてしまう。逆に、自分で判断する以上、必ず責任が伴います。その責任感が出てくると子どもはどんどん成長していきます」
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■「努力がつらいならキミは成長できない」元・日本代表FW 高原直泰の場合
――まずサッカーを始めたころの話から伺えますか。
「静岡県の子どもは皆、遊びの一環でボールを触っていますから、その流れで自然と少年団に入っていました。どこにでもあるような少年団です」
――少年サッカーといえば全日本少年サッカー大会の大きな大会があります。
「もうまったく縁がないですね。そういう大会は清水市や静岡市の子どもが出場するものだったので、僕がいた三島市のチームはかすりもしない(笑)。僕も子どもの頃はそういう大会の存在すら知りませんでしたから」
――将来サッカー選手になるという夢は持っていたんですか?
「それはありましたね。当時はまだプロはなかったですけど、サッカー選手になることが当時から夢でした」
――そのために努力したといえるようなことはありますか?
「うーん、努力したことはないですね。サッカーは好きだからやっていただけ。楽しいからサッカーをやる。自分が努力しているという感覚はまったくなかったです。もちろん勝ち負けには拘っていました。負けるのは悔しいので」
――当時、指導者によく言われていたことなどはありますか?
「うーん、ないです。まずコーチがいなかったので。一応、父兄の方が見てくれてはいたんですけど、こういう練習にこだわってやっていた、という記憶も正直あまりない(笑)。もう遊びの延長のまま、自由気ままにゲームを楽しんでいたような子どもだったんです」
――では当時、うまくなるために拘っていたことは?
「うーん……それもない(笑)。とにかく身体が大きくて、当時小学生で166センチほどあって足も速かったし、足下もそこそこ、というか巧かったので(笑)、別に何もしなくても全部できてしまったんです(笑)。どこにでも顔を出して、ボールを奪って、自分で最後までドリブルしてシュートを決めちゃうような子どもだったので」
――なるほど。むかしの少年サッカーには神童と呼ばれる子どもが全国各地にいましたね。
「昔はそういう子どもが多かった気がしますね。いまはあまりいないのか、自由気ままにプレーすることをコーチに止められてしまっているのか、ぼくにはわからないですけど」
――そうすると当然周りからは注目されますよね?
「そうですね。あまり強くないチームだったけど、小6のときは静岡県大会で決勝まで進んだんですよ。決勝が清水のチームで、ボコボコにゴールを奪われて負けましたが(笑)。一応、そのレベルまでは行けました」
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■「辞めてもいいよ。両親のそのひと言に責任を感じた」元日本代表GK川口能活の場合
――中学に入ってからはどんな毎日を過ごしていましたか?
中学では、櫻井先生という熱心な恩師に出会い、よく居残り練習に付き合ってもらったのを覚えています。また、練習だけでなく、自宅から毎日1時間かけて学校まで通っていたのもハードでした。それでも、やって来られたのは父と母のサポートがあったから。特に母は朝ごはんだけでなく、お昼のお弁当も作ってくれていました。中学3年間は親に苦労をかけたし、家族のサポートがあったから、やってこられたと思います。
印象に残っているのは中学2年生のこと。サッカーを辞めたいと両親に言ったのですが、「辞めてもいいよ」とだけ返されたのを覚えています。その言い方に悲壮感や苛立ちが漂うこともなく自然だったことで、責任を感じましたね。用具代だけでなく、中学に通うことにもお金がかかっていたし、辞めるとこれまで親がしてくれたことが台無しになると気付きました。「なんで辞めるの?」って言われていたら、辞めていたかもしれません。どうしても親馬鹿になってしまい、自分の思い通りにしたい気持ちになるのも分かるのですが、親が子どもを責めず、意思を尊重することも大事かなと思います。
――練習は辛くなかったですか?
しょっちゅう、休みたいなと思っていましたよ。小学生のころは「監督が来ているかな?来ないと良いな」と思いながら、校庭を眺めていました(笑)。でも、練習を重ねることで、小学校時代に1つ上の学年の試合に出してもらったり、上手くなっている実感があったから続けられたと思います。
昔は試合があまり好きではなかったのです。今は逆ですけどね(笑)。
サッカーを始めた当初はちょっと寝坊しただけでも、体調が悪いと休んだりしていたんですが、
小学校4年生の時に、3回ほど続けて休んだら監督に怒られ、「練習に来るな」と一喝されました。
それで、グラウンドの隅から皆が練習している姿を見ていたのですが、その時に「やっぱり僕はサッカーが好きなんだ。練習ができないことがこんなに辛いんだ」という事に気づいて、そこから練習も試合も休まなくなりました。
プロになってからも、ちょっと痛いくらいでは休みませんし、小さいころに厳しさを身につけてもらったことが、40歳まで現役を続けられる力になっていると思います。もちろん遊んで学ぶことも大事ですが、厳しさから学ぶこともあるのではとぼくは思います。
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