東北の元気を届ける『仙台だより』
2011年10月26日
気仙沼・鹿折FC、震災からの7ヶ月~「もうやめようかと初めて思った」
「仙台だより」第7回は、未だ復興への道のり険しい宮城県気仙沼市で、精力的に活動を続けるサッカークラブ鹿折(ししおり)FCを取り上げます。鹿折FCは人的被害こそなかったものの、練習グラウンドや多くのサッカー用具を失う被害を受け、震災から2ヶ月間ほとんど活動できない状況でした。しかし、多くのサッカーファミリーの支援により、チームは活動を再開させ、子ども達の笑顔が戻ってきました。
■グラウンドもサッカー用具も津波で失う
東日本大震災から7ヶ月を経過した宮城県気仙沼市。日本有数の港町を津波が襲い、さらに流れ出た油が街を火の海に包んだ映像をご覧になった方も多いかと思います。ガレキの撤去はある程度進んだものの、まだ引き続き街中にはガレキを片付ける重機の音があちらこちらで響いています。そして市内の中心部には未だに津波被害を受けた建物や、陸に打ち上げられた船が残っています。地盤沈下した道路は砂利が積み上げられているため、いたるところに砂利道が存在し、夜になると街灯や信号のなくなった地区は真っ暗闇になります。仮設住宅の建設は進んでいるものの、まだ全ての避難所を閉鎖できていません。まだまだ復興への道のりは長く険しいものになりそうです。
現在の気仙沼市の様子。未だに壊れてそのままになった建物、陸上に打ち上がったままの船、地盤沈下した道路。
この気仙沼市で30年もの長きにわたり精力的に活動を続けてきたサッカークラブが鹿折FCです。ジュニアユース(中学生)チームとジュニア(小学生)チームを持ち、市内で夜間照明施設のある気仙沼中央公民館のグラウンドを使用してきました。しかし、中央公民館は津波で甚大な被害を受け、このグラウンドは使用できなくなってしまいました。
さらに、倉庫に保存していたユニフォームやテント、ゴール、ボールなどたくさんのサッカー用具は津波で全て流されてしまいました。また、残ったのは震災の翌日に予定していた遠征のために車に積んでいた半袖のユニフォームだけでした。そのユニフォームも油臭くなってしまい、洗剤を何箱も使って洗ったとのことです。
幸いにも選手やスタッフなど人的被害はなかった鹿折FCでしたが、インフラの復旧も県内中心部より大きく遅れ、震災から1ヶ月強はとてもサッカーどころではない日々が続きました。
ジュニアユースは4月下旬、遠野で行われた大会に招待で出場しましたが、夜間照明が使えるグラウンドが無くなり、夜19時以降練習できる環境が整わないことから、この大会をもって活動休止を余儀なくされました。現在もジュニアユースは活動休止状態です。
30年の長きにわたり鹿折FCでサッカーの指導を続けている代表・菅原洋一さん。あふれる情熱で、気仙沼の子ども達にサッカーの楽しさを伝えています。
■「もうやめようかと初めて思った」
そしてジュニアが活動できるようになったのは5月14日。震災から2ヶ月後のことでした。前年度の卒団式を兼ねて、最初の練習を行ったそうです。
5月中旬はちょうど宮城県サッカー協会が「震災復興キックオフ」と銘打ち、行事・大会の自粛を解いた時で、「全日本少年サッカー大会宮城県大会」を日程縮小の末行うことが決まった時でした。鹿折FC代表の菅原洋一さんは当初活動再開について悩んでいたそうです。「チームをもうやめようかと初めて思いました。大会を始めると聞いた時もまだ早いんじゃないかと思いました」と語る菅原さんは、子ども達のご家族も復興に向けて大変な思いをしている中の活動再開をとても悩んでいました。
しかし、活動を再開すると「子どもがやりたい、と引っ張ってくれると親は何とかするのです。試合に出ると嫌なことをその時だけは忘れます。6年生が女の子1人しかいないのに全日本少年サッカー大会のブロック予選最初の試合で勝って、親も嬉しかったんじゃないでしょうか。負け試合も全部善戦でした。」と、試合での子ども達やご家族の笑顔を見て喜びを感じたそうです。「最初はやれると思いませんでした。沿岸部の指導者の方と会っていつも話すのは『またやれると思わなかったよね』ということです」と語る菅原さん。苦しみを越えて再び子ども達にサッカーの楽しみを伝えられる喜びを感じています。
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