サッカー豆知識
2019年7月18日
小中高と選抜歴ゼロ、全国とも無縁だった伊東純也(ゲンク/ベルギー)がスカウトの目に留まったワケ
日本代表としてアジアカップに出場し、ベルギーリーグ優勝も経験した伊東純也選手。海外でも活躍中の伊東選手が元400メートルハードル選手の永野佑一さんと考えた、運動が苦手でも大丈夫、難しいフォーム練習は一切なしの足を速くするメソッドを紹介した著書「子どもの足がどんどん速くなる」がただいま好評発売中です。
最近の活躍を見ると、みなさんは彼が少年時代から第一線で活躍してきたと思われるかもしれません。ところが、そうではありません。「ぼく、小中高と全国大会とは無縁で、選抜歴もゼロなんです」と苦笑する伊東選手の歩みを、彼のご両親が振り返ってくれました。
(取材・文:熊崎敬 写真:新井賢一)
<<前編:日本代表のスピードスター、伊東純也が速くなれたのは「地元の地形」のおかげ!?
■小中高と全国大会出場なし、「普通のチーム」のサッカー少年だった
前編でもお伝えしたように、伊東選手は神奈川県横須賀市浦賀で生まれ育ちました。そう、あのペリーが黒船を率いて来航したことでも知られる浦賀です。
彼は小学校1年のとき、地元の『鴨居サッカークラブ』に入団。本格的にサッカーを始めます。
父の利也さんによると、鴨居SCは「運動が苦手な子でも入れる、普通のチーム」。そんなチームで、純也少年は入団時からレギュラーとして活躍していたそうです。
といっても、そのプレイスタイルは気まぐれなサッカー小僧そのもの。
「いまと同じようにウイングをしていて、ボールが逆サイドにあるときは、足をクロスさせて休んでいました。でも、いざボールが来ると走り出してチャンスを作るんです。自分のところにボールが来ると、きっちりやるので仲間も文句をいえない。やることやってるからいいでしょ? という雰囲気を出しているわけです」
地域のよくあるチームといっても、鴨居SCは地元ではそれなりに強く、同じ地域ではダントツに強い横浜F・マリノスの下部組織と対戦しても、そこそこいい勝負をしていたそうです。
エースではなかったものの、中心選手として活躍していた純也少年は小学校6年生のとき、マリノス・ジュニアユースのセレクションに勧誘されます。
母の由香さんが当時を振り返ります。
「1次、2次は免除で、最終選考だけ受けてくださいということでした。でも、最終選考に来る子は、地域のトレセンやマリノス・ジュニアで活躍している実力者ばかり。ですから、私たち親は落ちても仕方ないと思っていました。で、実際に落ちたわけです。私たちの目には、純也もそれほど悔しそうにしていませんでした。あとで聞くと、ずいぶん悔しかったということですが」
マリノス・ジュニアユースに落ちた純也少年は、中学での3年間、地域の少年団『横須賀シーガルス』で活躍。高校には「家から通える」という理由で、逗葉高校に進学します。
小学校、中学校、高校と全国大会に無縁だった純也少年ですが、この高校時代に転機が訪れます。
■大敗だったのにスカウトの目に留まったワケ
インターハイ予選の初戦で、逗葉は不運にも全国レベルの強豪、桐光学園と対戦することになりました。結果は1-6の大敗。しかし、この試合で伊東純也の名前が関係者の間で知られることになります。
父の利也さんが教えてくれました。
「等々力での試合には、大学のスカウトが何人か来ていたようです。もちろん、桐光の選手を見るために。ですが、そこで純也が活躍したわけです。開始5分くらいだったかな。左サイドから敵を何人もかわし、シュートを決めて。あのプレーで名前を覚えてもらって、いくつかの大学から声をかけてもらえたんです」
母の由香さんが補足します。
「たぶん、純也が桐光にいたらベンチ止まりで試合に出られなかったでしょう。そうしたら、スカウトの目には留まらない。あまり強くないチームにいたからこそゲームに出られて、活躍できたわけです」
声をかけられたいくつかの大学の中から、伊東選手は神奈川大学への進学を決めます。このときの理由も「家から通える」だったとか。つまり伊東選手は、22歳になるまで坂だらけの浦賀で過ごしました。それもまた、武器である快足を鍛えることにつながったのかもしれません。
■強豪チームにいなかったからこそ得られたチャンス
全国大会とは無縁、選抜歴ゼロの伊東選手は、大学時代にようやく頭角を表わしました。
関東大学リーグ2部で得点王に輝き、4年時には全日本大学選抜にも名を連ねます。こうしてJリーガーへの道が切り拓かれたのです。
栄光とはほぼ無縁のアマチュア時代を振り返って、両親は「純也がプロになるなんて、まさかねえ......」と声をそろえます。
「あの子は持っているんだよね」と語るのは父の利也さん。
「基本的に、あまり強くないチームにいたので、常に試合に出ている。ですから桐光戦のようなことも起きるんです。そして純也は結構、大事なところで決める勝負強さもあるんですよ。プロに進んでからも、ツイていると思います。ヴァンフォーレ甲府で1年目から試合に出ることができましたからね」
伊東選手のキャリアを振り返ると、常に出場できる環境にいたからこそ、遅まきながら芽が出たということができるのではないでしょうか。母の由香さんが語ったように、強いチームにいることが、必ずしも本人のために良いとは限らないということです。
強いチームにいると注目される反面、実力があっても試合に出られないリスクがあります。逆に、弱いチームにいると、スカウトには注目されないかもしれませんが、試合に出やすいというメリットがあります。
どんなところにいても、いいことと悪いことはある。それなら、いま自分がいる場所で前向きにがんばりましょう――。伊東選手のキャリアから、私たちはそのことの大切さを教えてくれます。
これはサッカーだけに限らない、とてもいいメッセージではないでしょうか。
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