■スポーツマンシップを身につける意味
じつは、「スポーツマンシップ」とは「尊重(Respect)」のことなのです。より正確に言うならば、「競技(=ルール)」「相手」「審判」に対する「尊重の念」をスポーツマンシップと言います。
IOC(国際オリンピック委員会)はオリンピックの開会式において、「スポーツマンシップの宣言」を「式典の細則」の中で必須と定めています。そして宣言は、「選手代表」と「審判の代表」の二者によって行なわれています。(ロンドン五輪の開会式でも行なわれていました。)
「スポーツマンシップ」を身につけることで、人は「尊重」という脳の機能を正しく発達させることができるのです。
■「同じ」共同体から「違う」社会へ
ご存知のように、近代スポーツは19世紀のイギリスで確立されました。もちろん、19世紀には前頭葉の機能など解明されていません。前頭葉が本能に関係がないことは、20世紀のなかばには知られていました。そして、暴力犯罪常習者などには、その性格を抑制するために「前頭葉切除」という手術が効果的だと考えられ、「ロボトミー手術」と呼ばれていました。(ジャック・ニコルソンが主演してアカデミーを受賞した「カッコーの巣の上で」にも登場しています。)この手術を確立したポルトガルの医師、エガス・モニスはノーベル医学賞を受賞しています。
脳の機能が分かっていなかったにも関わらず、「スポーツマンシップ」を「尊重」として、子弟の教育にはスポーツが有効だとしたことについては、19世紀当時のイギリスを理解する必要があります。
当時のイギリスは、世界で初めて産業革命を成し遂げた国であり、その国力を背景に、世界中に植民地を有し、「7つの海を支配する帝国」でした。
産業革命の進行により、工場を中心とした都市が登場します。また交通機関の発達により、人とモノの移動が激しくなりました。それまでは、人は「共同体」で生活していましたが、イギリスに初めて「社会」が登場したのです。
「共同体」は、生まれが「同じ」で、「同じ」ような生活を営み、「同じ」ような価値観をもった人の集合体です。ここでは「同じ」と「不変」が生活のロジックでした。
しかし「社会」となると、「違う」場所で生まれ、「違う」生活様式で育った「違う」価値観の人々の集合体が誕生します。それが「都市」です。従って、「社会」では「違う」人とうまく折り合って生活することが重要になりました。「尊重」とは、「違う立場の人の存在を認めること」なのです。
日本は社会の隅々まで「共同体的」です。かつて、山本七兵は『空気の研究』(文春文庫)で、日本が参戦を決めた会議では「空気」がその場を支配していたことを、あらわにしました。21世紀になって、若者のあいだで「KY」という言葉が流行り、この国では異質な者の存在を認めない、抑圧的な「空気」が連綿として生き残っていることが明らかになりました。本来は「機能」で関係づけられているはずの会社が、いまだに「ムラ(村)」的なロジックで動いていることは周知の事実です。
■ジョブスも実践した「尊重(スポーツマンシップ)」
一方で、アップルの創始者スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学で名誉学位を授与された際のスピーチで、学生達に「Stay foolish」と述べました。「人と違うこと」や「突出」を恐れるな、というジョブズらしいメッセージでした。今の日本における沈滞は、「挑戦」を許さず、「みなに倣え」的な指向と無関係ではありません。これからのグローバルな社会に対応する人材にとって、「尊重」は基礎的な能力です。国際社会において、他者から尊重される人間になるための最低の条件は、自らが「尊重」を実践することです。
2001年にOECDにおける教育課題に「エンパシー」という項目が加わりました。「シンパシー」は分かり合えるという前提の「共感」ですが、「エンパシー」は最終的には分かり合えない相手の背景、「なぜ、そう思うのか?」を理解する能力のことです。これこそが、異質な他者を「尊重」する前提なのです。
「尊重」は思想ではなく、生活信条ですから実践的です。
「尊重」は思想ではなく、生活信条です。実践的な生活信条を身につけるためには、座学だけではなくトレーニングが必要になります。そこで、当時のイギリス人は、単なる遊びだった「スポーツ」に、社会的な能力を身につける「教育機会」としての機能を付加することにしたのです。そして、パブリック・スクールで「近代スポーツ」を完成させたのです。次回はそのお話を。
後編に続く>>
文/広瀬一郎 写真/田川秀之