都市部とこんなに違う地方のリアル -地方発、子どもたちの未来づくり-
2019年3月22日
はじめは眉を顰めていた地方のサッカー少年の親を変えた、絶大なるユニフォームの力
元アナウンサーでフリーライター、放送作家などとしても活動している傍ら、子どものサッカーに熱心にのめりこむサッカーパパだった会津泰成さん。
都会の恵まれたサッカー環境を始めたお子さんのプレーに才能を見出し、いつしか親の方が熱心になってしまった結果、「親のために」サッカーをしていたお子さんはサッカーが嫌いになってしまった後悔をもとに、現在は都会にも拠点を置きつつ、地方で子どもたちにサッカーの楽しさ、素晴らしさを伝える活動をしています。
「地方発 子供たちの未来づくり」をビジョンに活動する「NSP新潟サッカープロジェクト」代表として、都会と地方の子どもを結ぶ事を目標に、育成年代のサッカー普及活動に取り組む会津さん。
都会と地方を両方リアルに知っているからこそ書けるコラム、第二回はチームを立ち上げたころのお話をご覧ください。都会と地方では活動費やユニフォーム購入の意識など様々なところで価値観が異なるため、その理解を得るのに苦心された会津さん。子どもたちの笑顔が、プロジェクトを軌道に乗せた1つの大きな要因であることは間違いありません。
(サカイク編集部)
2017年4月――。息子に出来なかった、未来ある子どもたちにサッカーの楽しさ、素晴らしさを伝えたい。そんな思いから、わたしは新潟の過疎地域にある小さな少年サッカークラブを引き継ぎ、代表になりました。
チーム名は、『しただファンタジスタJFC』から『エストレヤ下田(しただ)』に変更しました。「エストレヤ」とは、スペイン語で星という意味です。下田の夜空に輝く無数の星々のように、子どもたちがキラキラと輝いて欲しい、という思いを込めました。
しかし、この挑戦はそう簡単ではない事を、わたしはすぐに思い知るのでした。
(構成・文・写真:会津泰成)
■元Jリーガーコーチ就任、意気揚々スタート
活動はボランティアで成り立っていた少年団から、おもに会費で成り立つ「クラブチーム」にしました。
「情熱ある指導者のボランティアクラブ」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、持続可能な組織を作るためには、自分自身の「事業(仕事)」として捉えなければ、いずれ覚悟も薄れ、行き詰まると思ったからです。
川崎市の自宅に戻るたび、わたしは活動に共感し協力してくれそうなコーチを探しました。新潟での取り組み自体は、多くのコーチが共感してくれました。しかし、いざ実際に移住して活動となると、みな二の足を踏みました。
それでも諦めず探し続けました。するとある時、高校サッカー部の監督をしていた知人から、大学卒業を間近に控える教え子を紹介してもらう事が出来ました。名前は芦田仁君。将来、高校サッカー部の監督を目指しており、就職も決まっていなかったことから、経験を積む意味で新潟行きを考えてくれました。
仁君は、高校時代はインターハイ出場。上武大学サッカー部でも副主将としてチームをまとめた実績の持ち主でした。ちなみに仁君も「地域おこし協力隊」制度で東京から引っ張りました。
さらにもう一人、強力な助っ人の加入が決まりました。
ある日、何年振りかに見覚えのある電話番号から着信がありました。
「お久しぶりです! 兄貴から、『会津さんの手伝いをするように』と言われたので、俺、新潟に行きます」
電話をかけてきたのは旧知の元Jリーガー、永井篤志(元モンテディオ山形等)でした。紹介してくれたのは篤志の兄、永井秀樹(現東京ヴェルディGM補佐兼ユース監督)でした。
永井秀樹氏とは二十数年来の仲で、わたしが新潟で新たな挑戦を始める事を話すと、何か協力できないかと申し出てくれました。そして、弟の篤志が、新潟からもそう離れていない山形に暮らしていた事もあり、声がけしてくれたのです。(篤志とは、彼が19歳でプロになったばかりの頃、わたしが世話をしたこともあり、兄の秀樹がその恩返しをするように説得してくれました)。
「元Jリーガー」と「大学サッカー部の選手」というなかなかの体制が整い、わたしは意気揚々と活動説明会を開催しました。
当日は予想を上回る盛況ぶり。最終的に、選手は20名集まりました。わたしはひとまず、子ども達がサッカーを続けられる環境は守ることが出来ほっとしました。
■ユニフォーム効果絶大! 購入に眉を顰める親たちを納得させた偉大な子どもたち
しかし、ここからが本当の苦労の始まりでした。
「なぜ、ユニフォームは購入しなければいけないのですか。クラブで用意してはくれないのですか」
「会費はもっと安く出来ないのですか。他のチームはもっと安いですよ」
「運営の仕方を変えるなら、保護者にも相談すべきでは」
活動を始めてすぐ、わたしにはそうした意見が複数寄せられました。まず大前提として、わたしがクラブを事業(仕事)として考えている事に対して、理解して頂く事すら、そう簡単ではありませんでした。なぜならば、そうしたスポーツ団体は、地域にはまったくなかったからです。
いまもそうですが、エストレヤの月会費は、高学年は週4回、低学年は週3回活動して6,000円に設定しています。
都会と地方の違いも考慮して、わたし自身は安価にしたつもりでした。しかし、例えコーチに元J リーガーがいようとも、「それはそれ」。「持続可能な組織づくりのためには、ボランティアでは成り立たない」と伝えても、最初はなかなか納得してもらえませんでした。
わたしは時間をかけて、保護者説明会を開いたり、個別に説明し続ける事にしました。もちろん最初から趣旨を理解し、協力してくださる保護者様もいらっしゃいました。しかし、直接口にはしないものの、わたしのやり方に対して少なからず不信感を抱いている保護者さんも多かったかもしれません。
初めての公式戦――。我らがエストレヤ下田は、しただファンタジスタ時代に使用していたユニフォームの胸マークの上から、「ESTRELLA」と描かれたチームエンブレムのシールを貼り付けて出場しました。背番号も、キーパー用ユニフォームはわたしが手で縫い付けて準備しました。当時は何をするにも手作り感満載でした。
ユニフォームは結局、半年以上かけて新しく買い揃えることが出来ました。本当は防寒用のピステも合わせて揃えたかったのですが、こちらは任意購入にしました。
揃いのユニフォームを着て練習すると、雰囲気は一気にチームらしくなりました。ホームのユニフォームは、情熱を表す赤を基調に、下田の夜空と流れ星をイメージした、濃紺とゴールドのラインを入れました。アウェイのユニフォームは、純粋を表す白を基調に、高さ200メートル以上ある断崖絶壁で、はやぶさの生息地としても知られる地域のシンボル、「八木ケ鼻(やぎがばな)」のシルエットをもモチーフにしました。
「やったーっ!」
「ありがとうございます!」
選手からの評判はすこぶる良く、初めてユニフォームを渡した時の、子ども達の満面の笑顔、そして誇らしげな表情はいまも忘れられません。
「今時、都会のクラブでユニフォームを着ただけでここまで喜ぶ子ども達は、どれほどいるだろうか」と、感動しました。
「新潟、いや日本中のジュニアチームで一番カッコいいユニフォームを作ろう」と考えて、デザインには徹底的に拘った甲斐がありました。
子どもの力は偉大です。面白いもので、当初はユニフォームを自費で購入することに眉を潜めていた保護者様も、実際、我が子が嬉しそうに着て活動している様子を見ると、対応も次第に変化が見られるようになりました。
任意購入にしたピステも、子どもたちから購入希望の声があがったおかげで、いまはすべての選手が購入してくれています。最近では、エストレヤのユニフォームに憧れて入会してくれた選手もいるなど、ユニフォームを揃えた効果は予想以上に大きいものでした。
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