■「プロになれ」恩師の言葉と信念
川崎選手は地元の少年団から横浜FC泉Jrユースを経て、東京の強豪校、成立学園に進み、プロでの活躍を夢見て“日本一で一番プロサッカー選手を多く育てる”流通経済大学に進学しました。
「プロになりたいと思ったのは少年団の監督に『お前はプロになれ』と言われたのがきっかけでしたね。小学校の時は全然プロになれるような選手じゃなかったと思うんですけど、なぜか監督は僕にだけそんなことを言ってくれたんですよね」
中・高と華々しい道を歩いてきたわけではありませんでしたが、川崎選手はこの時の恩師の言葉と自分を信じて「プロになる」という思いだけはブラさずにプレーしてきました。
「寮生活をしていると、本当に色々な人がいるんですよね。気をつけていたのはネガティブな人に近寄らないようにすること。練習を適当にやったり、遊びを優先させたりする空気に流されないように、あえてポジティブな人たちと一緒にいるようにしましたね。大学の時も一度腐りかけたこともあったんですけど、先輩の椎名さん(伸志・松本山雅)に自分がどれだけ期待されているかというような話をしていただいて戻ることができました」
16歳で親元を離れた川崎選手が「プロになるためにしたこと」を聞かれてJリーガーとしてしっかりとした返答をする傍らで、お母さんは少し驚いた表情を見せます。
「そんなことがあったんですね。全然話してくれないから。私なんかより先輩の皆さんや仲間、コーチや監督さんに助けられて。そういう人たちに育ててもらったようなものです。メールとか送るんですけど、1行しか返ってきませんからね」
便りのないのは達者の証拠とわかっていても、気になるのが親心。お母さんは今回のインタビューで初めて知ったことも多いと言います。
■先輩や仲間に育ててもらった「私の子育ては中学まで」
「私の子育ては中学までで終わりです」
息子が4年間を過ごした流通経済大学の龍ヶ崎キャンパスで、プロサッカー選手になった息子とインタビューを受ける感覚を、お母さんは「不思議な感じ」と表現します。
「サッカーのことを本当に知らないので、本当に大丈夫かな? という不安ばかりです。いまでこそ身体が強い、丈夫な子ですけど、生まれた頃は本当に病弱で」
お母さんの心配は尽きませんが、身体能力の高さを前面に出した強烈なプレーで鳴らす川崎選手が病弱だったとは。お母さんの眼差しは周囲とは全く違うようです。
サッカーのことは知らないから口を出さない。でも、自分のできることは精一杯する。本人とお母さんに同時に話を聞くという珍しいシチュエーションでしたが、Jリーガーになった母子の話はみなさんにも参考になったのではないでしょうか。ふたりの話はもう少し続きます。
次回は川崎選手の幼少時代、そして、Jリーガーの我が子を持つお母さんの本音に迫ります。
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取材・文/大塚一樹 写真提供/大学サッカー連盟