昨年、J1優勝を果たした柏レイソル。その精神的支柱としてチームを牽引した北嶋秀朗選手に、自身のサッカー人生を振り返っていただくとともに、子どもたちへの思い、子育てに対する考え方を語っていただきました。
ひたむきに夢を追い続けてきた北嶋選手。彼のインタビューを2回にわたりお届けします。
■子ども時代は完全なガキ大将タイプ
――北嶋選手がサッカーを始めたのは?
「小学1年生の時ですね。友達が地元のサッカー少年団に入っていたんですが、その少年団に入っている子たちしか持つことができないボールケースがあって。それを蹴りながら帰る友達の姿を見て『かっこいいな。俺もやりたいな』って(笑)。そのボールケースが欲しくてサッカーを始めたので、最初の頃はサッカーを職業にするなんてまったく想像もしていなかったですよね。でも、練習に行くようになって、少しずつボールを蹴る楽しさを感じたり、自分でも上達しているのがわかるとだんだん面白くなって。そういう中で自然と『人ってボールとボールでつながっているんだな』ということも子どもながらに感じるようになっていたんじゃないかと思います」
――当時、どんな練習をしたか覚えていますか?
「とにかくよく走りましたね。あと、大人がペナルティエリアの中から蹴ったボールを僕たちがヘディングでクリアする練習とか、今考えるとけっこうむちゃなこともやっていました(笑)」
――辞めたいと思ったことはありました?
「指導者が厳しい方で練習もきつかったんですが、終わった後にみんなでキックベースをして遊んだりして、オンとオフがはっきりしていたので、辞めたいと感じることはあまりなかったと思います」
――子どもの頃に憧れていた選手はいましたか?
「僕が小学校の頃にカズさん(三浦知良・横浜FC)がブラジルから帰国して、読売クラブでプレーするようになった時に一度国立に試合を見に行ったことがあるんですが、それからはもう筋金入りのカズファンに。『日本人がブラジルでプロになれるんだ』と衝撃を受けたことを覚えています。当時、漫画のキャプテン翼が流行っていたんですが、その影響もあって『サッカー=ブラジル』という図式が自分の中に刷り込まれていたんですよね。だからカズさんを見て、『翼くんみたいな人が本当に実在するんだ』って思ったことをよく覚えています」
――サッカー以外のスポーツをした記憶はありますか?
「本格的にはサッカーだけでしたが、遊びでは野球もよくしていましたし、警ドロや鬼ごっこなど、とにかく外でばかり遊んでいました。家に閉じこもってゲームをしていたというようなことはほぼなかったですね」
――どんなお子さんだったんですか?
「完全なガキ大将タイプです。自分の子どもがそうなったら嫌だなって思うくらい(笑)。たとえるなら……(ドラえもんに登場する)ジャイアン。『俺についてこい!』というような感じで、言うことを聞かないヤツは許さなかった。本当にどうしようもないリーダーでしたよ。でも、小学5年生の時の引っ越しを契機に変化したんです。見えた世界が変わったからなのか、小学生ながらに、それは友達を使っているだけだって悟ったというか。友達を大切にする本当の意味を知りましたね」
■いつも『今の自分』を冷静に見ることができていた
――ご両親からよく注意されたことは?
「しつけに関してはすごく厳しく言われていましたね。『挨拶をしなさい』とか『靴をちゃんと揃えなさい』とか。よく怒られていました。でも、そのおかげで挨拶することの重要性は幼いながらに理解することができたのかなと思います」
――ご両親は北嶋選手がサッカーを続けていくことに関しては、どのような考え方をされていたのですか?
「実は僕の父はサッカーではなく、ずっと野球をやってほしいと言っていたんですよ。でも、当の本人である僕はサッカーをやめる気持ちなんてまったくなかったんですけどね」
――なぜ野球をやってほしいと?
「父はバレーボールの選手だったので、最初は僕にもバレーボールをやってもらいたいと考えていたらしいのですが、近くにバレーボールのチームがなく、それならその次に好きな野球をと考えたようです。だから小学生の頃は父と僕がそこでせめぎ合い。ただ、中学生になったあたりから、僕がサッカーの県選抜や関東選抜に選ばれるようになると、徐々に認めてくれるようになりましたね。本当にサッカーが好きで、親がこんなに反対しても続けていて、世間にも少しずつ認められるようになっているのに、私たちが認めないわけにはいかないだろう、って。中2の頃くらいですかね。やっと『認めるよ』と言ってくれたのは。高校進学に関しても、僕がサッカーを中心に考えた選択をすることに関して理解を示してくれました」
――ご両親の理解をなかなか得られなくても、決してあきらめなかったのは、やはり北嶋選手のなかで『サッカーで生きていく』という気持ちが強かったからでしょうか。
「小学5年生頃からよく日本リーグの試合を見に行っていたんですが、当時はまだプロではなかったけれど、その場所に立つということをずっと夢みていましたし、中2でJリーグが開幕した時はもう確実に自分の中で『プロになる』と決めていましたからね。だから、親にも『俺はプロになる。だからそのために頑張るから』と、ずっと言っていました」
――その当時、自分の武器を把握し、それを伸ばすためには何をしたらいいのか考えたりしましたか?
「意外にいつも『今の自分』を冷静に見ることができていたと思います。中学時代、千葉県内では少し名前が知られるようになっていたのは知っていたけれど、自分がスーパーな存在じゃないことも分かっていたり。常に今の自分はどういうプレーができるのか、どれくらい通用するのかを確認しながら、1日1日、そして1年1年を過ごしていました」
■自分で作っていた『プロになるための約束』
――当時のことで何か印象深いこと、自信になったようなことはありました?
「中2の時に千葉県選抜としてブラジル遠征に参加させてもらったんですが、出場した大会で活躍することができて、しかも決勝でコリンチャンスを破って優勝することができたんです。それがすごく自信になりましたね。海外でサッカーをするのはそれが初めてだったんですが、思ったよりも(世界と)距離はないんじゃないかって、その時は錯覚して(笑)。だから、簡単にプロにもなれるんじゃないかって変に自信がついた部分もあると思います」
――その自信はいい影響を与えましたか?
「いい方向に働いたというか……僕は高校に行くまでは基本的に勘違いしたままで来ているんですよ(笑)。能力はスーパーじゃないけど、絶対にプロになれる……いや、なるって決まっているしって(笑)」
――では、小中学時代は壁らしい壁もなかったのでは?
「ないですね。完全なナルシストでした(笑)。夢に向かってひたすら突き進んでいる、日々大きな一歩を踏み出しているという感じでした」
――同じようにプロを志しているチームメイトはいました?
「自信を持ってプロを目指しているのは僕ぐらいでしたね。自分はプロになるからって、周りが炭酸飲料を飲んだり、お菓子を食べていても『俺はプロになるからしない』って、スポーツ飲料を飲んだり。そういう小さな約束を自分で作っていたんですよ、『プロになるための約束』を。たとえば『お菓子を食べすぎない』、『炭酸飲料を飲まない』とか、『テスト期間で部活がなくても、必ず毎日ボールを蹴る』とか。当時は約束を守るか守れないかで、プロになれるかなれないか勝負していたような気がします」
――誘惑に負けそうな年代でよく我慢できましたね。
「それくらいの世代にありそうな、“突っ張っている自分がかっこいい”という考えに流されそうな時期もありましたが、やはりすべては『プロサッカー選手になる』という夢が引き戻してくれた。だから夢を持つことはものすごく重要なことで、夢を具体化できていればできているほど、(夢を)かなえられる可能性は高いなと思うんですよね」
――しかし、高校に進学と同時にまたあらたな試練がおとずれるわけですよね。
「今までやってきたことは何だったんだ!? と思うくらい衝撃的だったというか、鼻をへし折られた感はありましたね。市立船橋(以下市船)に入って初めて戦術というものを学んで、その中で自分のプレーを出す難しさも感じた。それまでは感覚的にプレーしていた部分があったんですが、『考える』ことの重要性を初めて知りましたね。しかも練習もきついし、先輩は怖いし、先生も怖いし(笑)。高1の最初6カ月間は『ああ、ダメだな』と挫折の連続でしたね」
北嶋 秀朗//
きたじま・ひであき
FW。1978年5月23日生。千葉県習志野市出身。柏レイソル所属。市立船橋高校時代、第73回、第75回全国高等学校サッカー選手権大会で優勝。第75回大会では得点王となり、選手権大会通算16得点を挙げ、当時の通算最多得点数を記録した。1997年に柏レイソルに入団後、2003年に清水エスパルスへ移籍。そして2006年に柏へ復帰後は、精神的支柱としてチームを牽引し、J1昇格、そして昨年のJ1優勝へと導いた。
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取材・文/石井宏美 写真/新井賢一