日々、誰かのために法廷に立つ法律のプロ、弁護士。そんな弁護士の一人、大阪弁護士会に所属し、摂津総合法律事務所に勤める八十祐治さん(43)は元Jリーガーという肩書きを持つ異色の経歴の持ち主です。神戸大学卒業後にガンバ大阪へと入団。その後、ヴィッセル神戸、アルビレオ新潟(現在のアルビレックス新潟)と渡り、横河電機サッカー部(現在のJFL・横河武蔵野FC)で引退。引退後の2005年に4度目の挑戦で旧司法試験に合格しました。サッカーのプロから、法律のプロへ--- 華やか転進の裏にはサッカーで培った経験が生きていると八十さんは話します。
■“やれば出来る” 人生の基礎となった小中時代
――サッカーを始められたきっかけは?
「5つ上の兄の影響です。僕が幼稚園の頃に、兄がサッカーを始めたので、それについて行ってボールを蹴り始め、本格的にサッカーを始めたのは小学校4年生の時でした。僕が住んでいた大阪の高槻という地域は凄いサッカーが盛んな地域だったので、僕のチームはいつも6~8位で優勝はいつも出来ませんでした。その頃はまだJリーグが無い時代だったので、たまにテレビでやっているブラジルやドイツの試合を観ると子どもながら漠然とプロになりたいとは思っていましたが、それよりも日々のサッカーでうまくなりたいという気持ちが強かったですね。一番はサッカーが楽しいという気持ちでした」
――その頃、勉強はどうでしたか?
「僕の場合はサッカーを一生懸命やっていただけでした。でも、サッカーってやれる時間が決まっているじゃないですか。学校に行っている間は授業を受けないといけない。授業受ける間はサッカーが出来ないなら、その分、授業を頑張ろうという気持ちでやっていました。特別なことはせずに、授業をちゃんと受けていたという感じでしたね。自分としても成績が伸びるようになったのはサッカーで自信がついてきたからで、サッカーで人よりもうまくなってきたりとか、試合で勝てたりとか、練習で頑張ったらそれなりに成果がついてきました。そうすると、サッカーでも気持ちがいいし、自信にもなる。そういう気持ちがそのまま普段の授業やテストでも生きてきた。サッカーで勝ったら嬉しいのと同じように、勉強でも頑張ったら点が伸びる。まずサッカーがあって、サッカーで自信がついてきたら、勉強でも負けたくないとうまくリンク出来たと思います」
――成功体験がプラスに繋がっていったのですね。
「やっぱりテストもいい点やって、皆に『八十は何点?』と聞かれた際にいい点を言えたら嬉しいじゃないですか。サッカーでも点が取ることが出来たり、試合で勝てたら嬉しいですし、コーチとかに『今日は良かったな』って言ってもらえたら嬉しい。本当にそれと同じ感覚で、勉強も出来ていました」
――サッカーでの成績はどうだったんですか?
「中学3年生の時に全国大会に出ました。単独チームで全国大会に出られたのは私のサッカー人生で後にも先にもそれだけでした。中学の3年間は大阪で優勝して、全国大会に出るという目標のためにずっと練習をやっていたので、本当に嬉しかったですね。さっきお話したように、小学校時代、6~8番目だったチームがそのまま中学に上がっていくので、どこのチームもメンバーが変わらない。でも、3年間でひっくり返すことが出来た。“やれば出来る”という事が学べたので、勉強の方でも負けたくないという気持ちにもより繋がっていったと思います」
――そういった小中学校で知った“やれば出来る”という気持ちが後に生きてきている。
「その時の気持ちがずっと今も続いています。大学の受験で浪人した際も、受験勉強している時は常に“やれば出来るんだ”と。全然、根拠は無いのですけど、頑張れば結果がついてくると思えたのは大きいと思います」
■サッカーが好きだったから、辛い時期も乗り越えることが出来た
――一年間、浪人してから大学サッカーの舞台に進むと大変ではなかったですか?
「高校時代、大阪選抜で一緒だった友だちは強豪校に入って一年生から活躍したりしていたので、浪人時代も悶々とした気持ちはありました。しかも、1年間まったくサッカーをしていなかったので、最初の1年間は身体がついていかなくて、元に戻すので精一杯で凄く苦しかったし、焦る気持ちでいっぱいでした。ただ、自分が選んだ道なので仕方ないし、一日も早く身体を戻してレギュラーになって活躍したいという気持ちが強かった。一年間レギュラーになれずに悔しい思いでやったというのは、自分の中では良かったと思うのです。今まですぐにレギュラーになることが出来たり、サッカー人生ある程度、順調に行っていた中で、挫折というか出られない悔しさを持って試合に出ることが出来た。そういう気持ちがまたサッカーを頑張ろうという力に変わっていったと思います」
――そういった挫折を味わう中で、二十歳前後は他の誘惑も多い時期だと思います。サッカーを辞めようと思ったりはしませんでしたか?
「あまり無かったですね。結局はサッカーが自分の中で一番だったのです。サッカーをないがしろにしてまで、他のものを遊ぼうという考えはありませんでした。何が一番楽しいかなと考えた時に、サッカーをやっている時が一番楽しいし、サッカーが一番楽しいからそれ以外の事をやってもそれが楽しいというかね。最終的にはサッカーが一番好きだという感じでした。大学に入ると浮かれる気持ちもありましたけど、そこは一番何が自分にとって大事かというのが考えられたのは良かったと思います」
――大学に入ってからのサッカー人生はいかがでしたか?
「僕が入った頃は関西2部で大学の土のグラウンドで試合でしたけど、3,4年の時に1部へと上がってからはちゃんとしたスタジアムで芝生のグラウンドとまず環境がまったく違いました。そして、相手チームがすべて格上。神戸大学には高校時代、選抜に選ばれていた選手は僕を含めても2人か3人くらい。ましてや、僕たちのチームには監督がいなかったので、全部、自分たちで運営しないといけなかった。普通にやれば絶対に勝てないというのは分かっていたので、相手チームを分析して、どうすれば勝てるのか、そのための練習はどうしたらいいのかを考えました。濃密でしたね。サッカーと向き合う時間も増えましたし、一番、成長できた時期だと思います」
サッカーが好きという一心でボールを追いかけ、充実していたアマチュア時代から一転、プロで待ち受けていたのは苦難の連続でした。次回は八十さんのプロ生活を振り返ってもらいます。
八十祐治(やそ・ゆうじ)//
1969年10月31日生。大阪府出身。摂津総合法律事務所に所属する弁護士。大阪府立茨木高校、神戸大学を経て、Jリーグ発足の1993年にガンバ大阪に入団。MFとして、2年間3試合に出場した。その後はヴィッセル神戸や横河電機などを経て2000年に現役を引退。一度はサラリーマンとして働いていたが、弁護士の道を目指し、一念発起。4度目の挑戦となる2005年に合格した。現在は大阪弁護士会に所属し、大阪市北区の摂津総合法律事務所に勤務する。
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取材・文・写真/森田将義 写真提供/八十祐治