■スポーツで「考える力」をつける
放っておくと、目の前で起こる事件や現象に対応することに終止してしまい、原理原則を欠いた対応になりがちです。それを繰り返すと、確かに器用さは身に付くでしょうが、周りに信頼されるリーダーにはなれません。
それを避けるためには、意識を高くもって「原理・原則」を認識し、考えられるようにするトレーニングが必要です。もし勇気や自信を欠いているなら、勇気や自信を身につけるためのトレーニングが必要なのです。そして、スポーツはそのための最高のトレーニングなのです。
古代ギリシアの哲人アリストテレスは、「道徳というものは技術に似ている。それを習得するためには修練が必要なのだ」と述べています。なぜなら、倫理というものは極めて「行動的(Pro-Active)」なものだからです。「何が正しいか」を知っているだけでは「倫理」とは言えません。それが「実践」されて、初めて「倫理」となります。日本でも古来、「義を見てせざるは、勇なきなり」という有名な言葉があります。「すべき(=義)」だと考えても、それを行動に移さなければ、「勇(気)」は無いと言うしかありません。
■スポーツマンシップは自分への褒美
スポーツマンシップが必要なのは、スポーツが本質的にそれを要求するからです。スポーツは「ルールで規定された競争的な運動」であり、それを行うために一定の人格特性を必要とします。本来なら、スポーツマンシップなしにスポーツは成立せず、試合すら成り立たないのです。
私たちはどのような人間であり、どのように生きるのか、そして、われわれの子どもたちがどのように育っていくのか、スポーツマンシップはまさにそこを問題にしているのです。
私たちがスポーツマンシップという名で呼んでいる精神的な能力は、きわめて実践的かつ汎用性のあるものです。好ましい品格は試合に勝つためにも、ビジネスを行うためにも、友情を築くためにも役立ちます。
しかし、それを単なる便宜的なものとして扱い、スポーツマンシップが本来持っている価値や機能を減少させたりしないように気をつけましょう。便宜的なものと、原理とは異なります。原理は原理ゆえに、生きる上であらゆる場面で適応が可能です。困難な局面であればあるほど、唯一の正解と言えるものが存在しません。そこでは、「考える」「判断する」という原理が不可欠なのです。
良いスポーツマンシップによって「褒美(実利)を与えられる」のかどうかは別として、良い品行はそれ自体が子どもにとって人生のためになりますね。つまり、「スポーツマンシップ自体が褒美」なのです。
豊かな社会は、良き市民を育成する以外に実現する方法がありません。スポーツマン(=GOOD FELLOW)を育成し、社会に供給することは次の世代に対する私たち大人の義務だと思います。私たちは今や、きちんとスポーツとスポーツマンシップを理解し伝えて行かなければならないのではないでしょうか。
取材・文 広瀬一郎 写真 田川秀之