■体育とスポーツの違い
われわれ日本人は、サッカーが「ボールを蹴りあってゴールを決めるゲーム」であることを知っています。ルールも知っています。ボール扱いのうまい選手もいます。本田圭佑選手のように、海外の一流クラブにスカウトされる選手さえ出てきました。しかし、ゲームとはなにかをちゃんと理解しているでしょうか? いや、ゲームとはなにかを理解していないことを自覚しているでしょうか。子どもたちに「スポーツとは」「ゲームとは」「尊重とは」「サッカーとは」という点について、ちゃんと話せる大人がどれだけいるでしょうか?
スポーツで『敵』という言葉を使うのは日本だけです。それと『選手』という言葉の使い方が違います。『Player』は『選手』ではありません。選ばれなくても、スポーツをプレーして楽しむことは、だれもが許されている権利です。ゴルフのトーナメントでは、毎日スタート・ホールに選手紹介するアナウンサーが必ずいます。日本では『石川遼選手』と紹介されますが、世界では「Mr. Ishikawa, from Japan」と呼ばれます。決して「Ishikawa Player」とは言いません。
些細なことのようですが、スポーツでは日本と世界に違いがあります。この違いはなぜ生じているのか?もしこれがスポーツに対する無理解から生じているのであれば、改めるべきでしょう。スポーツへの無理解を象徴しているのが、国民の祝日『体育の日』です。1964年の東京オリンピックの開会式の日を記念して制定されたのは、広く知られています。しかし、オリンピックは「スポーツの祭典」であり、「体育の祭典」ではありません。問題は、だれもこの点をおかしいと気づかないことなのです。誰も異義を唱えないことなのです。こういう感覚が、じつはリスクへの鈍感さを生じている背景に存在しているのです。このまま2020年の東京オリンピックを迎えていいのでしょうか? 早急に祝日の名称変更をすべきです(なお、文部省が文部科学省に名称変更された2001年に、『体育局』の名称が『青少年・スポーツ局』に変更されていますが、大きくは取り上げられませんでした)
スポーツは強制してやらされるものではありません。これが体育との最大の相違点です。スポーツをするには、個人が自主的に「ゲームへの参加」を選択する必要があります。ゲームへの参加には、一定の義務が生じます。その義務は「スポーツの原理」から生じたことであり、それをわきまえて義務を担う覚悟が参加条件です。この覚悟をスポーツマンシップと言います。つまり、スポーツマンシップはスポーツの理解が前提になります。それはルールを知っているだけでは不十分です。「ルールがなぜあるのか」というルールの意義を理解することが必要なんです。これが『尊重(Respect)』です。
スポーツを理解せずにスポーツを好きになることは不可能です、同様に,サッカーを理解せずにサッカーを好きになることも難しいでしょう。サッカーを好きな人が少ない国で、サッカーが強くなることは、果たして可能でしょうか。
取材・文/広瀬一郎 写真/Getty images 田川秀之