サッカーを観て学ぶ
満足した試合はない!柏レイソル大谷秀和のボランチ論
公開:2014年12月11日 更新:2020年3月24日
前回記事『大谷秀和のサッカー観戦術「ボールのないところを観る」』にてサッカーを観ることの大切さを語ってくれた大谷秀和選手。今回は、自身がよく観ている選手や、プロ1年目から試合に出る秘訣などを話してくれました。ボランチやキャプテンを任される選手は必見の内容です。(取材・文 石井宏美 写真提供 柏レイソル)
■ボランチ・大谷秀和がよく観る選手
――ちなみに同じポジションで好きな選手は?
昔から好きで、よくプレーを観ていたのはシャビ・アロンソ(バイエルン・ミュンヘン)です。ぼくはもともとFWでプレーしていたこともあり攻めることが好きで、プロに入った直後は、後ろをカバーしてもらいながら、自分が飛び出したい時に飛び出していました。
それがネルシーニョ監督就任後、つねにボールの後ろでサポートして、ボールと一緒に上がっていくようにと指示されるようになると、そういうタイプの選手を観るようになりました。ヤヤトゥーレ(マンチェスター・シティ)やパウリ―ニョ、ビダル(ユヴェントス)など、一味違うものをチームに付けられる選手も好きですが、自分のいまのポジションを考えた時に、つねにボールの後ろにいながら、ディフェンスになったら一番に出所をつぶすプレーをするというところで、あらためてシャビに注目しています。
――現在はボランチでプレーしていますが、ポジション転向直後は戸惑いもあったのではないでしょうか?
高校3年になる時に、監督から「プロになるのなら、ボランチだと思うよ」という言葉をかけていただきました。でも、高校3年生になればボランチでプレーさせてくれるのかなと思っていたら、けが人が出たり、ひとつ年下の(菅沼)実(現サガン鳥栖)が2種登録でトップチームに帯同することが多い兼ね合いもあってトップ下でプレーせざるをえなかったんです(笑)。
――監督の言葉を当時はどのように受け止めたのですか?
ぼくはかなり現実的で、自分を客観的にみるタイプ。トップチームの攻撃的なポジションは、自分よりもさらに特別な選手たちがやるものだと思っていましたし、ユース時代にサテライトの練習や試合に参加する中で、試合に出ることができない攻撃的なポジションの選手たちを見て、「この選手たちは、自分とはモノが違うな」と感じていました。「自分は前のポジションじゃなければいやだ」というガツガツした気持ちがなかったんです。「ボランチをやりなさい」と言われたら「はい、分かりました」というタイプで(笑)。でも、早めに気付くことができたことが、結果的には良かったのかなと思いますけどね。
■勝った試合でも満足したことはない
――ボランチというポジションをおもしろいと感じ始めたのは?
ボランチはプロになってからやり始めたポジションですし、監督によっても役割が変わってくるので、なにが正解なのかあまり分からなかったんですよ。攻撃にも守備にも関われてボールにも触れる、そういった部分はやればやるほどおもしろいなと感じました。また、ディフェンスの選手であれば1-0で勝利した場合や、引き分けでも0-0で無失点に抑えた時は、ある程度の達成感を感じると思うのですが、ボランチは攻守両面に関わっている分、無失点で試合を終えられたことに対してはうれしいけれど、無得点だった場合は、心が消化不良というか。逆に点の取り合いで勝利した時や引き分けた時も、「これだけ得点できてよかった」と喜ぶ反面、失点したことが心残りで。サッカーはミスのあるスポーツですが、ミスをみんなで助け合いながら、ミスをミスにしないスポーツでもある。自分の中では「ミスがない試合」を理想としているので、なかなか満足するということはありませんね。
――満足までいかなくても、納得することは?
プロ同士の試合ではなかなか難しい部分もありますが、ある程度試合を自分の思い通りに動かせたなと感じる試合が年間に数試合あります。でも、やっぱりすっきりしない(笑)。勝ってうれしい気持ちがあっても、それ以上に失点が気になりますし、自分のプレーひとつをとっても、周りから見ればミスに見えないプレーでも、自分からみればミスだなと感じるプレーもあって。「もう少し早く予測できていれば防げたな」とか「パスは通ってるけれど、思い通りのところじゃなかったから、相手は受けづらかっただろうな」と反省したり。そう感じたら、それはもうミスです。
自分が納得いく試合が、サッカー選手を引退するまでに1回あったらいいほうでしょうね。おそらくないとは思いますけど(笑)。ただ、そういうプレーをつねに求めていきたいとは考えています。そのためにミスする確率を減らしたり、ミスをなくすために試合を観て、勉強する。そういった意味でも、年齢を重ねれば重ねるほど、試合を観るようになっていると思います。やはり『観る』こと、『観て考える』ことで、それを完全に理解するところまではいかなくても、そこに近づくことはできると思います。