川崎フロンターレのゴールキーパー西部洋平選手。中学まではサッカー未経験で、本格的に始めたのは高校からという珍しい経歴を持った選手です。わずか高校3年間でプロになれた背景には、ご両親から譲り受けた類い稀な身体能力があったことはもちろんですが、育った環境も大きな影響を与えていたようです。
■アウトドア派の父の影響
――西部選手がサッカーを始めたのは高校生になってからと伺っていますが、小中学生の頃は何かスポーツはされていたんですか?
「けっこうなんでもやりたがりの子どもで、いろいろなスポーツをしていましたね。中でも一番長く、そして真剣にやっていたのが剣道で、それを中心に習い事まではいかないまでも卓球やバスケットなど、自分がやりたいと思ったスポーツは、とにかくなんでもトライしていました。父親がかなりのアウトドアタイプの人だったので、幼い頃からよく登山に連れて行かれたりもしましたね」
――一番真剣に、長くやられていた剣道に専念しようとは思わなかったのですか?
「もちろん、できれば剣道をずっと続けたかったんですが、中学校か高校に入るまで段を取ることが出来ないと聞いて、それが面白くなかったのか、剣道にハマりきることができなかったんです。僕はなんでも極めたくなるタイプなので、余計にそう感じてしまったのかもしれません。その他にもいろいろスポーツはやっていたんですが、なかなか『これ!』と思えるようなものには出会えなかったですね。でも、好奇心旺盛な子どもではあったと思います」
――ご両親は西部選手がいろいろなスポーツにチャレンジすることに対してはどのようなスタンスだったのですか?
「なんでも一緒にやってくれる父親でしたので、よく一緒にキャッチボールをした記憶があります。あとは家族でバドミントンをしたり。そしてケガをして(笑)。ですから、本当に父親の影響というものは大きかったと思います。僕の小さい頃はファミコンの時代でしたが、西部家はアウトドア派だったので、もちろん家にはなかったですし、買ってもらえませんでした。それどころか部屋で遊ぶということが、ほとんどありませんでしたね。休みとなれば、釣りに行ったり、外で体を動かす。そういうことを積極的に行ってくれました」
■『うちはうち』、『これがうちのスタイル』
――西部家の教育方針は?
「一番よく言われたのは『人は人』ということですね。小さい頃はよく“誰だれくんがこうやっているから、僕もこうやりたい”と、僕も親にしつこく言っていたんですが、全く聞き入れてもらえなくて。『うちはうち』、『これがうちのスタイル』って。だけど、自分が何かにチャレンジすることに対しては積極的に応援してくれましたし、『好きなことをやればいいんだよ』と後押ししてくれましたね。僕自身も今は『人は人』だと考えていますし、そういう考えがあったからこそここまでこれたと思っています。そういう人間性を作ってくれた両親には感謝していますね」
――いろいろなスポーツを経験したことが、その後、どのように生かされたと思いますか?
「もともと親から受け継いだ身体能力や運動能力はあったと思うのですが、いろいろなスポーツを経験して、バランス感覚や集中力を養えたことは大きかったと思います。実は僕は小さな頃はすぐに集中力がなくなってしまうような子どもだったのですが、スポーツを通じて鍛えられ、落ち着く時間が増えたと両親も話していました。そこで集中力を養えたことは。のちにサッカーを続けるにあたっても、大きかったのではないかと思います」
――いろいろなスポーツをされていた西部選手が、サッカーという選択を決断したのは?
「中学の担任がサッカー部の顧問だったのですが、進路を決める際に、僕がある程度運動神経が良いということを知っていたので、サッカー推薦で帝京第三に進学することを薦めてくれたんです。そして、まずはセレクションを受けることになったのですが、それまでサッカーの経験なんて全くなかったですからね。中学3年生で身長が180センチあったので、『大きいからGKだな』というノリで受けてみたんですが、なぜか受かってしまった(笑)。その先生がいなかったら、きっとそのセレクションも受けていなかっただろうし、そういう進路を選択することもなかったでしょうね。そう考えると、本当に運とタイミングが良かったのかなと思います」
■サッカー未経験でセレクション
――高校のセレクションを受けるにあたってどんな準備を行ったんですか?
「まずは兄の同級生にジャージをもらいに行ったり、スパイクを揃えたりというところから始まりました。それまでまったく経験がないわけですからね、着るものも道具もほぼ新品同様でしたよ(笑)。セレクションを受けにきた周りの子たちは、もう何年もサッカーをやってきているような子たちばかりでしたから、合格できないだろうとも思っていました。でも、サッカーの実技以外の運動能力測定の部分、たとえば50m走やソフトボール投げでほとんど1位を記録して。そういうところで救われたんだと思います。それは親から受け継いだ運動能力と、幼い頃に様々なスポーツを経験したことで培われた能力のたまものだったのかもしれません」
――周りには選抜にも選ばれるような選手がいて、気負いや不安はありませんでしたか?
「ただ単純に走ったり飛んだりということはできても、(ボールを)キャッチできないし、そもそも何をしていいかということがわからなかったんですよね(笑)。でも、後に恩師である当時のGKコーチの話によると、クセがなかったことが良かったみたいで。1からGKを始めるということで、逆に教えやすかったし、のびしろも十分に感じられたと。その恩師の言葉ではありませんが、実際に自分自身も1日1日うまくなるのがわかりましたし、とにかく毎日が楽しくて仕方なかったです。周りの環境も全寮制でサッカーしかできないという環境で、そこに負けず嫌いの性格にさらに火がついて、どんどんサッカーにのめりこんでいきました。毎日悔しいことも多かったけれど、だからこそ、もっとうまくなりたいという気持ちになれましたね」
――しかし、出遅れたと感じることもあったのでは?
「サッカー部に入りたての頃は、周りの選手がめちゃくちゃうまく感じて、正直続けられるか不安でしたし、出遅れ感は否めませんでしたね。だからその分、ライバルが甘んじている間に自分は練習しまくろうと思って、それを続けていたら、あっという間に追いつくことができました」
西部 洋平//
にしべ・ようへい
GK。1980年12月1日生。兵庫県神戸市出身。川崎フロンターレ所属。サッカーを本格的に始めたのは高校生からという異色の経歴を持つ。高い瞬発力と身体能力が評価され、帝京第三高校(山梨県)卒業後にプロ契約。2007年には日本代表候補合宿にも選出された。
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取材・文/石井宏美 写真/新井賢一