1. サカイク
  2. コラム
  3. インタビュー
  4. 川崎F・大久保嘉人「ドリブルに磨きをかけた少年時代」

インタビュー

川崎F・大久保嘉人「ドリブルに磨きをかけた少年時代」

公開:2013年8月29日 更新:2023年6月30日

キーワード:川崎フロンターレ

130815_580_600.jpg
 
2013年、ヴィッセル神戸から川崎フロンターレへ完全移籍した大久保嘉人選手。J1第23節を終えた時点で、現在得点ランキング単独トップの18ゴールと好調を維持している大久保嘉人選手に、子どもの頃の話や少年時代のエピソードについて語っていただきました。
 
 

■キツイ練習でも楽しかった思い出しか残っていない

――大久保選手がサッカーを始めたのは?
 
「小学1年生のある日、親と買い物に行った時のことでした。車で通った道のそばの広場でサッカーをやっている光景を目にしたのですが、当時はまだサッカーのことを知らず、父親に『あれは何をやっているの?』と聞いたところ、『サッカー』だと教えられて。それで一度やってみたいと言ったんです。ただ、実際に練習に行ってみたところ、まったくボールを蹴ることができず、1日でやめてしまって(笑)。小学2年の頃は一輪車にハマり、毎日、一輪車に乗っていました。そして、小学3年生になって再びサッカー少年団に入ることになったのですが、最初は特に入るつもりはありませんでした。ただ、周りの友だちがみんなサッカー少年団に入るということで、その流れにのって……というような感じで、僕もサッカーをまた始めることになったんです」
 
――その頃は、サッカーが楽しいと感じられましたか?
 
「1年生で初めて練習に参加した時よりも、ボールがよく飛んでいきましたね。それが本当に嬉しかったことを覚えています。そして、それ以降は、どんどんサッカーにのめり込み、練習にも休まずに行くようになりました」
 
――当時はどんな練習をしていましたか?
 
「自宅にいる時は、家の壁に向かってずっとボールを蹴り続けたり、鉄の大きな柵になっているごみ箱の穴にボールをコントロールしていれたりして練習していましたね。少年団の練習はきつかったですよ。走りやミニゲーム、シュート練習などが主なメニューでした。すごくきつい練習ではあったけれど、楽しかったです。また、周りの誰にも負けたくないという気持ちは、その頃から、少しずつ強くなっていったように思います。それ以前は、『別に負けてもいいや』と勝負に対するこだわりはあまりなかったタイプだったのに、負けたくないという気持ちがどんどん強くなっていきました。当時はFWとしてプレーしていたのですが、とにかく『点を取りたい』という気持ちがすごく大きかったですね。
 
130815_301_600.jpg
 

■まさか自分がプロサッカー選手になるとは思っていなかった

――FWのポジションは指導者に決められたんですか?
 
「いや、定かなところではないのですが(笑)、実は一番最初はGKでプレーしていたんですよ。『やりたいところをやれ』と言われて、GKを選択したんです。でも、実際にやってみたところ、ボールがまったく来ず、面白くなかったので、前めのポジションに移動しました。小学5年生の頃はすでにFWでしたが、強いチームと試合をする時には、相手チームにうまい選手がいるので、いつも自分がマンツーマンでマークにつくなど、試合によってはたまにディフェンスをやることもありました。今振り返ると、自分でもよくやったなと思いますよ(笑)」
 
――その頃、すでにプロ選手になるという夢を持っていましたか?
 
「当時はまだ考えていなかったように思います。僕の地元は田舎でしたし、まさか自分がなれるとも考えていませんでした。もちろん、小学5年生の時にJリーグが開幕していたので、プロリーグの存在は知っていましたし、よく試合も見ていましたけれど。試合の翌日は、ラモスさんのループを真似していましたね。ただ、テレビなどで試合を見ても、自分が将来そこに立つというイメージはまったく持っていなかった。そう考え始めるようになったのは、高校になってからだったと思います」
 
――プロ選手のプレーをビデオで見たりすることは?
「親が8選手ぐらいのゴールシーンを集めたビデオを買ってくれましたが、ボビー・チャールトンなど、昔の選手ばかりで、実はあまり覚えていないんですよ。なかなか渋い人選でしたね(笑)」
 
130815_541_600.jpg
 

■父よりも母が厳しかった小学生時代

――ご両親はスポーツをされていたんですか?
 
「サッカーではありませんが、父も母もバレーボールをしていました。母は実業団でもプレーしていたようです。親によく言われていたのは、『負けるな』ということですね。試合で負けたり、点が取れなかったりすると、ご飯を食べさせてくれないということもありましたよ。うちは父よりも母の方が厳しかった」
 
――大久保選手がサッカーを続けることに関してはどのようにサポートしてくれましたか?
 
「僕は小学校卒業後、地元を離れ、長崎の国見中学校に進学したのですが、それも親の薦めだったんです。僕は最後まで『行きたくない』と抵抗していたのですが、最終的には『プロになれるかもしれないんだから、それにかけろ!』という言葉に納得し、決断しました。実際に、国見中学校は全国でも結果を残すような強いチームだったんですよ。ただ、親からはそのような言葉をかけられてはいましたが、実際はまだプロなんて具体的なものではなかったですし、とにかく中学でも試合に出たいという気持ちだけでした。プロなんて、まだまだ、あまりにも先のことでしたから」
 
――周りの選手のレベルも高かったのですか?
 
「同じ学年の選手だけでも、長崎以外の遠方から8,9人ほどきていたんですが、みんな高いテクニックを持っていて、うまいヤツばかりでした。僕も小学校時代にナショナルトレセンに入っていましたし、地域選抜としてプレーした経験もあったので自信は持っていたつもりですが、チームメイトのプレーを見た瞬間は、『これは(自分は)駄目だな』とショックを受けました。ただ、それでも、もうやるしかなかった。練習はきつかったけれど、楽しくて、辞めたいと思ったことは一度もありませんでしたね」
 
130815_166_600.jpg
 

■最初はホームシックにもかかった中学生時代

――親元を離れて、自分でやるべきことも多くなったと思います。
 
「最初の1、2カ月は、洗濯や掃除など、いろいろと自分でやらなければならなかったので、面倒でしたが、それも時間が過ぎると、徐々に慣れていきました。ホームシックも最初だけ。ただ、(ホームシックにかかっていた)その頃は、『帰りたい』と言っていましたし、実家によく電話をかけていました。特別何かを話すというわけではないのですが、寂しいから電話をかけて、声を聞いてホッとするという感じで」
 
――大久保家の教育方針があれば教えてください。
 
「挨拶、礼儀、ご飯の食べ方などに関しては厳しかったですよ。しかも、小学生の頃は僕は悪ガキだったので、とくに(笑)。窓ガラスを割ったり、何かをして怒られた時に、自宅にある金魚鉢を割り、母親に暴言を吐いて逃げたこともありました。本当にやんちゃな子どもでした。ただ、勉強に関しては、ほぼ何も言われなかったですね。中学校や高校の時は、赤点を取ると練習をさせてもらなかったので、テスト前だけは必至に勉強していた記憶があります。でも、中学1年、そして高校1年の時は、テストの点が悪くて、あまりサッカーをしていない記憶が(笑)。中学1年の時はほぼ副審しかしていなかったですよ(笑)」
 
――その頃には自分の武器はこれだ!と理解していましたか? また、それを伸ばすためにどんな練習をしていましたか?
 
「中学校の頃は、グラウンドにコーンを置いて、チームの練習をする前に、ひたすらドリブルの練習をしていました。本当に周りはうまい選手ばかりだったので、その誰にも負けたくないという気持ちが強かったからこそ。当時は朝5時から練習していたのですが、それぐらいやらないといけないという気持ちが強かったです」
 
【後編】J1得点王と再び代表をめざして>>
 
 
130815_601_250.jpg
大久保 嘉人//おおくぼ・よしと
1982年6月9日生。福岡県出身。川崎フロンターレ所属。 長崎県の国見高校では3年生の2000年度、インターハイ・国体・全国高校サッカー選手権で3冠を達成。2001年、セレッソ大阪が多くのJクラブの中から獲得し、Jリーグ第2節の浦和レッズ戦で途中出場ながらデビューを果たす。2004年7月にU-23日本代表としてアテネオリンピックに出場し2得点を記録。この活躍が認められ同年11月にはスペインのRCDマジョルカへ期限付き移籍となった。以降はセレッソ大阪、ヴィッセル神戸、VfLヴォルフスブルグ、ヴィッセル神戸へと移籍し、2010年6月にはFIFAワールドカップ南アフリカ大会に出場。2013年に川崎フロンターレへ完全移籍となり、第23節終了時点で得点ランキングトップの18ゴールをマークしている。
1

サカイク公式LINE
\\友だち募集中//

子どもを伸ばす親の心得を配信中!
大事な情報を見逃さずにチェック!

友だち追加
サッカー少年の子育てに役立つ最新記事が届く!サカイクメルマガ
取材・文/石井宏美 写真/新井賢一

募集中サカイクイベント

サカイクイベント一覧

関連記事

関連記事一覧へ

インタビューコンテンツ一覧へ(335件)

コメント

  1. サカイク
  2. コラム
  3. インタビュー
  4. 川崎F・大久保嘉人「ドリブルに磨きをかけた少年時代」