サテライト試合後、思うようにサッカーができず悩む日々
02年からジュビロ磐田のスタッフとして活躍し、現在は広報として忙しい日々を送っている松森亮さん。ご存知の人も多いと思いますが、実は松森さんは96年から2年間、ジュビロ磐田の選手経歴を持っています。小中高とサッカー一筋の毎日を送り、生活のほぼすべての時間をサッカーに費やしました。「夢は?」と聞かれれば、「プロ選手になること」と答え、Jリーガーを夢見て、ひたすら前だけを見続けていました。高校時代は名門・市立船橋のサッカー部に所属し、2年時には全国高校サッカー選手権で優勝を成し遂げています。弱音を吐きそうな厳しいトレーニングや理不尽さも、決して根をあげることはありませんでした。高校時代の活躍と才能を認められ、96年にジュビロ磐田へ加入。期待に胸を膨らませ、プロの世界へと足を踏み入れたのです。
■Jリーグバブルが崩壊し、プロ2年目で思わぬ展開に
プロ初年度の96年は、U-19日本代表としてAFCユース選手権に出場。しかし、公式戦ではチャンスを掴めないまま、1年目が終わってしまいます。続く2年目も、公式戦出場機会は得られませんでした。そしてシーズン終了後のある日、松森さんは戦力外通告を受けてしまいます。くしくも、戦力外が通告された97年は、Jリーグバブルが崩壊した時期でした。自分と似たような境遇の選手や、高年俸のベテラン選手、日本代表にも選ばれた経歴を持つような選手たちが次々に戦力外通告を言い渡された時代。屈辱の解雇通知は、想像以上に松森さんに大きなショックを与えました。
「当時は、20歳といえどもまだ子どもでしたし、高校時代はもちろん、小学校も中学校も、とにかくサッカー一筋という感じでやってきた。“自分にはこれしかない”というほど、サッカーにすべての力を注いできました。ですから、0円提示を受けた時も、それは選手としての0円提示ということなのですが、自分の人生すべてを否定されたような気がして。“もう自分の人生は終わったな”というくらい、絶望感を味わいました」
その後、2つのクラブの練習に参加し、あらたな“就職先”を探した松森さん。しかし、肝心のトライアルは精神的なショックを引きずったせいか、思うようなプレーができませんでした。また、先に述べた時代背景も影響し、結局、契約合意には至りませんでした。その時、自分の中で、何かがプツッと切れる音がしたそうです。
「僕の周りには20代後半で家族もいて、でも、次にプレーするチームがないという選手がたくさんいた。そういう姿を見ているうちに、夢がないなと思うようになってしまって。好きだったサッカーが、嫌いになってしまった。サッカーに限らずですが、どんなに好きなものでも、職業にすると、違和感を覚えることが多いと思うんです。僕も“仕事ではなくても、サッカーはそのへんの空き地でもできるからそれでいいや”と思ってしまうような性格で、その頃はそう感じていましたね」
全日本高校サッカー選手権大会準々決勝 高校2年時の東福岡戦。全国制覇のメンバーとなる。
■母校の恩師を訪ね、勧められた情報ビジネスの専門学校へ入学
失意の松森さんが新天地に選んだのは、実家のある千葉でした。サッカーの次に興味を持っていた、デザインやファッションの道へ進もうと考えたのです。そのために、まずはパソコンの技術を学ぶことが必要だと、専門学校への進学を検討。最初に母校へ卒業証明書を取りに行くことから始めました。恩師・布啓一郎(現・日本サッカー協会)を訪ね、久しぶりに市立船橋高校の門をくぐりました。
「現役引退の報告を兼ねて、布先生を訪ねたのですが、“特別に行きたいところがないのなら、俺の知っている専門学校に行けよ”と言われて。布先生にそう言われたら、従うしかないですよね(笑)。その専門学校は情報ビジネス専門学校だったのですが、布先生の恩師でもあり、第一期習志野黄金時代の監督でもあった西堂(就)さんがサッカー部の監督を務められていました」
専門学校のある千葉県・松戸市で新生活をスタートさせた松森さん。朝から夕方までは学校で勉強し、その後は生活費を稼ぐため、アルバイトに精を出しました。脇目も振らずに勉強とバイトに励む毎日。電話もメールも出来ないほど、目まぐるしく時間が過ぎ去っていったそうです。
「最初の1年間は、本当に学校、アルバイト、睡眠の繰り返しでした。プロ選手だったといってもわずか2年。貯金もそんなにあるわけではありませんでしたし、わずかな貯金も入学費や準備費などで消えてしまって。必然的に働くしかありませんでした」
レンタルCD・ビデオ店で始めたバイトの時給は790円。プロに入るまで、サッカー一筋で生きてきた松森さん。もちろん、過去にバイトの経験はありませんでした。お金を稼ぐ大変さも、そこで身を持って感じたそうです。
専門学校での全国大会。結果全国3位。サッカーの楽しさを再確認する。
■サッカーから完全に離れたい。そんな思いまでよぎった事も
ちょうど、時を同じくして、その頃、柳沢敦(現ベガルタ仙台)、明神智和(現ガンバ大阪)ら、ユース代表で共に戦った同世代の仲間たちが、シドニー五輪出場を目指し、第一線で活躍していました。しかし、松森さんは「それまでの過程をテレビや新聞などで見たくないし、連絡も取りたくない」と、大好きなサッカーと距離を置き、完全にシャットアウト。サッカー部に入ることを条件に入学した専門学校も、「“やります”と返事はしましたが、そこに心はなかった」と、あくまでも一歩引いたスタンス。デコボコで雑草が生い茂ったグラウンド、誰がボールを持ってくるかわからない、20歳を超えたチームメイトは煙草を吸っている……そんな環境も、たいして気にならなかったそうです。
しかし、ある出来事が松森さんのサッカーへの情熱を再燃させました。
「柏日体高校のサッカー部の1年生と定期的に練習試合を行うことになったんですが、彼らは僕が高校生の頃と同じような、必死な目をしていたんですよ。“将来プロになる”とか“選手権を目指す”という気持ちが体中から溢れ出ていて。目の輝きがこの頃の自分とは、まったく違っていましたね。“こんな半端な気持ちでボールを蹴っていては駄目だ”と痛感させられるほど、本当に楽しそうにプレーしていたのを覚えています」
それを機に、再びサッカーと真摯に向きあった松森さん。結果、所属していたチームは、2年連続全国大会に出場。しかも、2年時には全国3位という好成績も収めました。そしてそんな思いが、就職活動でも松森さんをサッカーの道へと再び導いていきます。
松森亮(まつもり・あきら)//
1977年11月19日生。千葉県出身。ジュビロ磐田広報担当。高校時代は市立船橋高校サッカー部に所属し、1995年(1994年度)の全国高校選手権に優勝。1996年にジュビロ磐田に入団、同年のAFCユース選手権にU-19日本代表として出場した。1997年シーズン後に戦力外通告を受けて現役を引退する。引退後の1999年に千葉県の情報ビジネス系専門学校に入学。システム会社勤務を経て、サッカービジネス会社を設立。 その後、 フリーでの活動を経て、2002年、ジュビロ磐田の広報担当として入社。 企画や交渉が評価され、現在ではクラブの中心スタッフとして引っ張っている。 選手たちからの信頼も厚く、常に新しい企画を提案しジュビロ磐田のアイディアマンとしてJリーグでも高く評価されはじめている。
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取材・文/石井宏美